評価と本質
令和4年度に2回(7月、1月)実施した児童生徒のアンケートでは、『国語=漢字』というイメージであることが分かりました。ここでは、国語の本質って何だろう?学習評価とは?という疑問に迫ります。
「本質」とは何か? 本質を捉えなおす
しばしば教員の方々から「何を教えたらよいか分からない。」「児童生徒に力が付いたかどうか分からない。」という声を聞くことがあります。この言葉は国語科という教科の複雑性をよく表していると考えます。
このような悩みがあるため、「書ける」「読める」がはっきりしている漢字に関する資質・能力が重視される傾向があるようです。しかし、何を覚えたかではなく、汎用的な資質・能力として、どのようなことができるようになったのかということにこそ国語科の学びの本質はあり、本来はそちらに目が向けられるべきです。
小学校低学年から中学校2年生までは学習指導要領で「漢字を書き、文や文章の中で使うこと。」と示されているのに対し、義務教育終了段階の中学校3年生では「漢字について、文や文章の中で使い慣れること。」と表現が変わります。
漢字を書くという資質・能力を否定はしませんが、様々な場面でICTの利活用が進む社会において、目指すべきは、文脈にふさわしい漢字を使って伝えたり、漢字から内容を捉えたりする資質・能力を育成することです。
当然のように思われる学習活動であっても、何のための活動なのか、どのような資質・能力の獲得を目指しているのか、と見直してみると、様々なことがシンプルにクリアになることがあります。
どのような資質・能力を身に付ける学習なのかを意識し、指導に当たることが必要なのではないでしょうか。
ある小学校の事例 漢字の宿題から
漢字の全体を見て覚えることの苦手な児童に対して、『漢字を書いて練習する宿題』を、漢字の偏と旁を組み合わせて正しい漢字を作ったり、一画足りない漢字から正しい漢字を作る等、工夫をされています。
『漢字の宿題』についての固定観念を良い意味で覆す取組と言えます。
ある中学校の事例 評価の本質へ
変更・調整に向けた会議の中で、「機器を使用することで漢字の表記ミスがなくなるため、減点の可能性が下がり有利になるのではないか」という意見もありました。しかし、「正しい漢字を選べることも生徒の力として評価できる」と国語の教科担当者が判断しました。
当たり前のことですが、それぞれの設問でどの観点を評価するのかを整理することは重要です。
「指導と評価の一体化」 何を評価するのか
「指導したことに対する評価」と意識することが、「指導と評価の一体化」につながります。どのような資質・能力を身に付ける単元なのかを、教職員が自覚して授業を行い、それが児童生徒の学習状況として実現されたかについて評価する流れです。
特に国語科の場合、重要なのは「教材を教える」のではなく、「教材を使って」、「どのような資質・能力の育成を目指して」、授業実践を行うかということです。「『ごんぎつね』を教えます。」ではなく、「『ごんぎつね』という教材で、『登場人物の気持ちを複数の叙述から捉える』ことを指導します。」とねらいを明確にし、指導・評価が行われることです。
指導していないことは評価できません。教職員はその単元で育成を目指し、指導した資質・能力を評価するのであって、本時のねらいとしていない資質・能力まで評価すると、学びの本質も評価も複雑で見えにくくなります。
「指導したことを評価する」という、シンプルな考えで「指導と評価の一体化」を推し進めることが大切です。
指導助言
次の一歩は本質
私たちが負担を感じるところに、社会的障壁が潜んでいる可能性に気づき、その障壁を解消するために、障害のある児童生徒に合理的配慮(=個別の異なる取り扱い)をしようとする。すると次に出会うのは、「本質を見直そう」という考え方です。例えば、漢字のとめ・はね・はらい、鉛筆で手書きすること、印刷された文字を目で見て読むこと、暗算での計算…そもそもどうしてそれが、学びのあらゆる場面で必要なものとされてきたのでしょうか。もちろん、児童生徒全体に対して、長い間、その指導方法が標準とされてきたことには、歴史的な意義があるはずです。ただ、それが一部の、読み書きの特別支援ニーズなど、ある種の特性のある児童生徒を学びの機会から排除する障壁になってしまっている。だとしたら、一人の児童生徒の特性や状況によって、積極的にほかの児童生徒とは異なる学び方や評価の仕方を認めた方が、結果として、本質的な教育目的の達成ができるはずです。そうした視点が、合理的配慮の考え方の基礎にあります。
しかし、ある子どもの学習や評価の方法が、ほかの子どもたちと違う形になっても、学びの内容の本質的な部分には、同じように触れられるよう工夫しなければ、適切な合理的配慮とは言えなくなる場合があります。この適切性を考えていく過程で、私たちは、「そもそもこの場面では、鉛筆で書字しなくても、本質的に理解できているかどうか評価できるのでは?」のように考えます。すると教員としては、これまで一般的な社会通念や慣行に従って「こういうものだろう」と漠然と考え、特に疑っていなかったことに、改めて向かい合う必要が生まれます。
学習指導要領や指導書に書かれている内容をあなたが読んだときのことを想像してみてください。漢字の書き取りで鉛筆を持てない子ども、体育で体を動かせない子どもに対して、「この子は指導要領で想定されている形になっていないから評価できないし、授業に参加もできない」と素朴に考えてしまっていませんか。
それは、その子どもを中心に置いて、学びの本質がどこにあるかだったり、一人ひとりの学ぶ権利をどう保障するかを考えられていないのかもしれません。学習指導要領を中心に置いて、求められた水準の授業をすることを考えていることになります。もちろん教師という職業人として、後者の職務遂行をどうスムーズに行うかを考えることはとても大切なことです。しかし、個々の場面での学びの本質を十分とらえきれていなかったり、創造的に考えることができていないことについて、後者が言い訳に使われることもあります。他の児童生徒と学び方や評価の方法は異なっていても、本質的な教育目的は損なわれないようにするには、どう工夫するべきか?と、いつも自然に考えること、つまり、本質を考える癖のようなものが、適切な合理的配慮を実現する糸口になります。
さらに、本質を見失わないように配慮しつつ、適切な合理的配慮を行うことがより強く求められがちなのは、試験の場面です。本研究プロジェクトでは、試験や評価の場面での合理的配慮として、例えばテスト問題にキーボード入力で解答したり、音声読み上げ機能で問題を聞いて解答することに、最初の頃から取り組んできました。教員たちは皆、「他と違う方法を合理的配慮としてどこまで認めていいのか」と悩んできました。悩みながら学びの本質と適切な合理的配慮のあり方を追求する営みには、実は終わりはありません。しかし、そうした営みは、やがてその地域での新しい慣行や当たり前を生み出し、特別支援ニーズのある子どもたちの学びの地平を広げていきます。
つきつめて考えると、試験の場面で、合理的配慮、つまり他の児童生徒とは異なる取り扱いを認めても、それがその問いの本質を損なっていないかを判断できるのは、その教科の専門家や作問者になります。本プロジェクトが、特別支援教育を担う教員や教室での授業を担う教員だけではなく、後半では国語や英語、数学など教科の指導主事の先生方にもご参加いただきました。
ある日のプロジェクト会議で、研究協力者の先生から「漢字の学習指導要領には『漢字を書くこと』と書かれている。キーボード利用がこの子には(書字障害の状況から)必要だと思うが、本当にそうしてよいだろうか」という悩みが共有されました。するとそこに参加していた国語の指導主事の先生から「小学校から中学2年までの学習指導要領には、確かに『漢字を書く』ことが示されている。しかし、中学3年の学習指導要領には、もはや『書く』という言葉はなくなり、漢字については『文や文章の中で使い慣れること』と書かれている。つまり、義務教育段階を終えるまでに学校教育が本質的に目指すべきことは『使い慣れること』であって『書く』ことではない。書字障害によりキーボードが必要な生徒なら、キーボードを使って『使い慣れている』状況を目指すことがやるべきことではないか」という発言がありました。深く印象に残っている対話の場面です。
合理的配慮と学びや問いの本質について、ICT活用のプロジェクトであるにもかかわらず、教科の指導主事の皆さんと特別支援教育担当の皆さんとの対話や連携を行う形に発展していったことは、まさにこの「本質」に教師が向かい合おうとする態度を、関係者皆が大切にしてきたからです。
(令和5年度研究 東京大学先端科学技術研究センター 近藤 武夫 教授)
