合理的配慮の先にあるもの~読み書きの特別支援ニーズに対するICT活用を通じて見えてきたこと~
令和5年度 東京大学先端科学技術研究センター 近藤武夫 教授
はじめに
2016年4月、本格的に「合理的配慮」という言葉が学校の中で話されるようになってから、2023年度末で、およそ8年の月日が経ちました。これは小学校1年生に入学した子どもたちが、小学校を卒業し、中学校 2年次が終わるまでと同じ長さです。ちょうど私たちがこの報告書にある読み書きに特別支援ニーズのある児童生徒をICTで支援するプロジェクトを始めたのも、2016年のことです。つまり、合理的配慮の考え方を、京都府の先生方が段々と心の内側に根付かせていくのと同じ期間を、私たちもこのプロジェクトと共に過ごしてきたことになります。
この間には合理的配慮以外にも、特別支援教育とICT活用に影響する様々なことが起こりました。2018年に高校通級が始まった翌年、2019年にはGIGAスクール構想が始まり、同時期にはあのコロナ・パンデミックも始まりました。そして2020年には「個別最適な学び・協働的な学び」という考え方が学習指導要領に登場します。コロナ過の影響も受け、2021年には一人一台端末環境の学校への整備が実現されました。そして2022年12月には、文科省調査により、小中学校の通常学級に発達障害に類する教育的ニーズのある児童生徒が8.8%(小学校では10.4%)という発表がありました。2023年5月にはコロナ・パンデミックについてWHOの緊急事態宣言が終了されました。そして来年度、2024年4月からは改正差別解消法が施行され、私立学校を含めたすべての学校で、合理的配慮の提供が義務化されることになります。まさに日本の特別支援教育の潮流の大きな節目、分離教育からインクルーシブ教育への大きな変化の時期に、このプロジェクトを京都という日本で最初の特別支援教育(1878年に盲唖院が創立)が始まった場所で皆さんとともに実施できたことに、深い意義を感じています。
インクルーシブ教育や合理的配慮の考え方は、日本の教育システムにとってはまだまだ新しい考え方です。インクルーシブ教育の考え方に則った教育制度を作ることを述べた中教審答申が出されたのも2012年のことです。今、教師として働いている人の中に、インクルーシブ教育システムという教育制度に基づいて行われる教育を受けてきた人はまだいません。そうした教員たちが生まれるまで、まだしばらく時間がかかります。誤解を恐れずに言えば、人は、自分が受けてきた教育とは違う考え方に出会っても、すぐに「腑に落ちる」状態に至ることが難しいのではないかと思います。一歩一歩、時間をかけながら、いくつかの段階を経て、心のうちにその考え方を理解が自然な形で落ち着いていくものです。本研究プロジェクトのICT活用の実践を振り返りながら、この理解の段階について、一般的にどのような変遷をたどるのか、考えを述べたいと思います。そうすることで、今後、読み書きに特別支援ニーズのある子どもたちが、当たり前に学ぶことができる学校や教室、学びの機会をつくるために、私たちがどのような地域のあり方を目指していくべきかについて、皆さんと共に考えを深められたらと思います。
※ 国連障害者権利条約(2006年成立、日本政府は2007年に署名し、2014年に批准しました)が締約国に求めるインクルーシブ教育システムの構築について、中教審の答申が出されたのは2012年ですが、不当な差別的取り扱いを禁止し、合理的配慮の提供を義務または努力義務とする障害者差別解消法が施行されたのは2016年4月であり、法的制約力を持つ形でインクルーシブ教育が始まったのは2016年4月以降と考えてもいいかもしれません。
※ インクルーシブ教育システムについて、ここでは、子どもたちが障害の有無に関わらず、一人一人に合った学び方で、同じ学びの場で学ぶことができる形で、教育機会の保障を目指す教育制度、としておきます。
最初の一歩は「負担」
合理的配慮やインクルーシブ教育に出会った教員にまず初めにやってくるのは、「負担」という考えではないでしょうか。「合理的配慮と呼ばれてはいるが、ほかの児童生徒と異なる取り扱いをすることだから、それは本来不要なことを教師に負担を強いて実施することにほかならないのではないか?結果としてそれはほかの児童生徒の学びを妨げるのではないか?」といった考えです。
こうした考えは完全になくなってしまうことはありませんが、インクルーシブ教育システムの基礎にある「学ぶ権利の保障」という考え方に出会うことで、少しずつ変容していきます。そもそも教師の本分は、子どもたち一人一人の学ぶ権利を保障していくことにあるはずです。そこに軸足をおくと、「教室や学校の環境や慣行が、そこに想定されていない子どもたちをはじき出してしまう環境を作っているのではないか?」という気づきに出会います。教育の現場で、教師が行うべきことは、問題が起こらないように上手に管理された教室を実現することでもないし、これまで伝統的に行われてきた学校の慣行を、首尾よく続けていくことでもありません。子どもたちの学ぶ権利を保障することが教師の本分です。とはいえ、一人の教員の視点に立てば、こんなことをお題目のように誰かに教えられたからといって、すぐに腑に落ちるようなものではありません。これまでの環境や慣行を変えろと言われても、教師も一人の人間として、周囲の否定的な態度(管理職や同僚の教師の考えや態度、学校や教育委員会の雰囲気など)に出会うと、尻込みしてしまうような障壁を感じてしまいます。
ではどうしたらいいか。まずは「やるからには間違いのない環境を、教師である私が用意する責任がある」という考えを、一旦手放してみる必要があると私は考えています。あなたの目の前で学ぶことに苦闘しているひとりの児童生徒と、あなたも一緒に、学びの環境や慣行を変える試行錯誤をしてみることです。例えば文字がうまく読めない児童と、教科書やプリントの音声読み上げなど、別の方法で内容理解に至る方法にチャレンジしてみる。結果が約束できるかはわかりません。その試行錯誤の中で、教師もまた、子どもと一緒に、「何かが起こる、どこかに手応えがある」経験をする。印刷物や視覚的な資料しかない教室の環境が、一部の子どもたちを排除していたことを実感する。必ずしも学校全体のルール・慣行を大改造する必要はありません。私たちの身の回り5メートルほどの狭い範囲の中でも、できることを試行錯誤してみることで、社会の側にあった障壁が、その一部であっても、崩れたり、変わっていく経験をするでしょう。
本当は、あなたは子どもたちひとりひとりの学びを助けたいのに、学校という学びの場で、それができなかった。負担を感じて困っていたのは、実は自分自身だったのではないか、という経験をする。目の前にいる児童生徒と、あなたの間には、実は「困っている私たち」という共通項があったのではとふと気づく。そして児童生徒本人とあなたは、「教える人と教えられる人」という関係性を超えて、「この教室で共によく学ぶにはどうしたらいいだろう?」と相談しあう関係性になる。冒頭に挙げた「負担」が、教師と児童生徒の間でお互いに共有された「社会的障壁」という概念に変容していく瞬間です。これまで、本研究プロジェクトに参加してくださった先生方の事例発表を伺うたびに、先生方と児童生徒ひとりひとりの間に、そんな変容に出会った瞬間の存在を感じ取ることができました。
教師と生徒が対立して、お互いの存在を「負担」と感じたり、そう感じること自体を否定して蓋をしてしまい、お互いを避けてしまうことがあります。私たち教師と子どもたちが、共通して負担を感じている/困っている状況を生んでいるのは、お互いの存在ではありません。私たちが今いる環境にある「障壁の存在」であり、協力して解消を目指すことができるものなのだ、と試行錯誤を通じて捉え方を変容させていく。すると「合理的配慮の提供義務」というただのお題目は、学びを阻む障壁の解消に向けて、血の通った取り組みを生む考え方となります。「優れた教師が教室に100%理想的な環境を作るか、さもなくば児童生徒がここではないどこかに行くか」という全か無かの選択ではなく「あなたと私で環境の中の障壁をひとつずつ発見し、それを認め、ひとつずつ解消していこう」という基本的な態度が生まれます。
合理的配慮の実践では、「建設的な対話」という用語がよく使われています。この用語には、「いわゆるお役所的な、型通りの対話からもう一歩踏み込んで、教師と子どもがともに社会的障壁に対する困り感の当事者となり、お互いの存在を認め合った上で、共同作業をすること」という意味があると私は理解しています。
次の一歩は「本質」
私たちが負担を感じるところに、社会的障壁が潜んでいる可能性に気づき、その障壁を解消するために、障害のある児童生徒に合理的配慮(=個別の異なる取り扱い)をしようとする。すると次に出会うのは、「本質を見直そう」という考え方です。例えば、漢字のとめ・はね・はらい、鉛筆で手書きすること、印刷された文字を目で見て読むこと、暗算での計算…そもそもどうしてそれが、学びのあらゆる場面で必要なものとされてきたのでしょうか。もちろん、児童生徒全体に対して、長い間、その指導方法が標準とされてきたことには、歴史的な意義があるはずです。ただ、それが一部の、読み書きの特別支援ニーズなど、ある種の特性のある児童生徒を学びの機会から排除する障壁になってしまっている。だとしたら、一人の児童生徒の特性や状況によって、積極的にほかの児童生徒とは異なる学び方や評価の仕方を認めた方が、結果として、本質的な教育目的の達成ができるはずです。そうした視点が、合理的配慮の考え方の基礎にあります。
しかし、ある子どもの学習や評価の方法が、ほかの子どもたちと違う形になっても、学びの内容の本質的な部分には、同じように触れられるよう工夫しなければ、適切な合理的配慮とは言えなくなる場合があります。この適切性を考えていく過程で、私たちは、「そもそもこの場面では、鉛筆で書字しなくても、本質的に理解できているかどうか評価できるのでは?」のように考えます。すると教員としては、これまで一般的な社会通念や慣行に従って「こういうものだろう」と漠然と考え、特に疑っていなかったことに、改めて向かい合う必要が生まれます。
学習指導要領や指導書に書かれている内容をあなたが読んだときのことを想像してみてください。漢字の書き取りで鉛筆を持てない子ども、体育で体を動かせない子どもに対して、「この子は指導要領で想定されている形になっていないから評価できないし、授業に参加もできない」と素朴に考えてしまっていませんか。
それは、その子どもを中心に置いて、学びの本質がどこにあるかだったり、一人ひとりの学ぶ権利をどう保障するかを考えられていないのかもしれません。学習指導要領を中心に置いて、求められた水準の授業をすることを考えていることになります。もちろん教師という職業人として、後者の職務遂行をどうスムーズに行うかを考えることはとても大切なことです。しかし、個々の場面での学びの本質を十分とらえきれていなかったり、創造的に考えることができていないことについて、後者が言い訳に使われることもあります。他の児童生徒と学び方や評価の方法は異なっていても、本質的な教育目的は損なわれないようにするには、どう工夫するべきか?と、いつも自然に考えること、つまり、本質を考える癖のようなものが、適切な合理的配慮を実現する糸口になります。
さらに、本質を見失わないように配慮しつつ、適切な合理的配慮を行うことがより強く求められがちなのは、試験の場面です。本研究プロジェクトでは、試験や評価の場面での合理的配慮として、例えばテスト問題にキーボード入力で解答したり、音声読み上げ機能で問題を聞いて解答することに、最初の頃から取り組んできました。教員たちは皆、「他と違う方法を合理的配慮としてどこまで認めていいのか」と悩んできました。悩みながら学びの本質と適切な合理的配慮のあり方を追求する営みには、実は終わりはありません。しかし、そうした営みは、やがてその地域での新しい慣行や当たり前を生み出し、特別支援ニーズのある子どもたちの学びの地平を広げていきます。
つきつめて考えると、試験の場面で、合理的配慮、つまり他の児童生徒とは異なる取り扱いを認めても、それがその問いの本質を損なっていないかを判断できるのは、その教科の専門家や作問者になります。本プロジェクトが、特別支援教育を担う教員や教室での授業を担う教員だけではなく、後半では国語や英語、数学など教科の指導主事の先生方にもご参加いただきました。
ある日のプロジェクト会議で、研究協力者の先生から「漢字の学習指導要領には『漢字を書くこと』と書かれている。キーボード利用がこの子には(書字障害の状況から)必要だと思うが、本当にそうしてよいだろうか」という悩みが共有されました。するとそこに参加していた国語の指導主事の先生から「小学校から中学2年までの学習指導要領には、確かに『漢字を書く』ことが示されている。しかし、中学3年の学習指導要領には、もはや『書く』という言葉はなくなり、漢字については『文や文章の中で使い慣れること』と書かれている。つまり、義務教育段階を終えるまでに学校教育が本質的に目指すべきことは『使い慣れること』であって『書く』ことではない。書字障害によりキーボードが必要な生徒なら、キーボードを使って『使い慣れている』状況を目指すことがやるべきことではないか」という発言がありました。深く印象に残っている対話の場面です。
合理的配慮と学びや問いの本質について、ICT活用のプロジェクトであるにもかかわらず、教科の指導主事の皆さんと特別支援教育担当の皆さんとの対話や連携を行う形に発展していったことは、まさにこの「本質」に教師が向かい合おうとする態度を、関係者皆が大切にしてきたからです。
もう一歩先には「事前準備」
本研究プロジェクトで、当初から大事にしていたことがあります。それは「事前準備」という観点です。初等中等教育では、「基礎的環境整備」と言われたり、他では「環境の整備」や「事前的改善措置」と呼ばれたりすることがあります。例えば、「音声読み上げ機能を使って、文章を耳で聞いたらこの児童の理解が進むことがわかった!でも、読み上げができる教科書のデジタルデータはどうやって用意したらいいのだろう・・・?」という困り感には、ICTを活用して読むことができる教科書データである「音声教材」を入手して使いました。入手にはしかるべき手続きが必要なので、児童生徒が困ったその日に入手してすぐに使うことはできず、事前準備が必要です。そして「教科書は音声で読めるようになった!でも、単元テストでは使えないがどうしたらいいのだろう・・・?」という困り感には、学校図書館や地域の大学の支援と連携して、単元テストをデジタル化して、通級の先生とニーズのある子どもが一緒に使う、という取り組みを行いました。これには関係者の連携を作ったり、著作権法を遵守した形で、かつ学校や教育委員会などの組織的にも、関係者が安心して取り組めるように、体制や仕組みの整備をして臨みました。これも初めて取り組む時には、事前準備が必要です。
こうした事前準備に最初に取り組む際には、一人の教員の視点からは「大きな負担」と感じられてしまうかもしれません。ただ、それらの教材がないと、ニーズのある子どもたちは学びを一歩先に進めることができません。そして、一度事前準備が整えば、その後の合理的配慮の営みが楽にできるようになります。結果として、長期的には、子どもも教員も学校も、関係者の苦労を和らげてくれたり、学びの本質へのアクセスをさらに進めてくれるものになります。
※ 音声教材とは、読むことに関する特別支援教育ニーズのある子どもたちがアクセスできるよう工夫して制作された、デジタル化した教科書です。複数の団体・大学等がさまざまな形式のものを製作して学校や個人に提供していますが、文部科学省はそれらを「音声教材」という名称で総称しています。
目指すは誰も孤立させない「地域システム」
本研究プロジェクトでは、総合教育センターがつながりのハブとなり、地域の小学校・中学校・高校の教員や特別支援教育コーディネーターと読み書きに特別支援ニーズのある児童生徒、府内各地の地域支援センターとそのコーディネーター、有識者である大学教員がつながり、読み書きを支援するICTの活用実践をキーワードに、ひとりの教師やひとつの学校を孤立させない地域システムの構築を目指しました。ICTの合理的配慮としての活用は、単に一人の教師を訓練して技能を高めればよい、といった簡単な問題ではありません。日々の教室の授業の中で、そして単元テストや宿題・課題でも、ひとりだけほかの生徒と違う方法や教材を使うことなど、ルールや慣行の変更が必要となることも多いからです。
前節の音声教材の例のように、法律、全国的な支援ネットワークや組織、そしてその活動を支える国(文部科学省)の事業により、学校や個人が利用できる社会資源としてすでに用意されたものについては、教師個人でもやろうと思えば取り組めます。実際に教師個人で支援に取り組んでおられる方も全国におられます。しかし、地域の教育委員会が、音声教材を利用する教師や個人を支える取り組みを行うところも少なくありません。ルールや慣行の変更など、教師一人では悩みがちな点を組織的に支えることの必要性があるためです。京都府の場合は、本研究プロジェクトを通じて、総合教育センターが各学校の音声教材の利用や入手をサポートしています。つまり、地域が個々の教師の実践をバックアップする仕組みがあることで、教師個人の社会資源の利用がさらに楽になります。
そして、前節後半の学校図書館や大学との連携など、地域連携の構築が必要になる部分は、もはや教師一人だけではできないことです。誰かが周囲を巻き込みながら、「ないものは作る」という精神で進める必要があります。本研究プロジェクトでは、ひとつの学校の通級や学校図書館、市教育委員会、地域の大学がスムーズに連携できるよう、組織間のやり取りのための書類の書式作成を含めたプロセスの整理を、総合教育センターが担当しました。結果として、一つの小学校の中で、単元テストが受けられなくて困っていた児童が直面する障壁を「音声読み上げで受けられるデジタル単元テストを作成する」ことによって解消するに至りました。学校図書館を仕組みに巻き込んだことで、制度的には、他の市町の学校図書館ともデータを共有することが(著作権法的に問題のない形で)できる枠組みができました。実際の幅広いデータ共有の実践はまだこれからですが、地域が連携してシステムを作り、困っている児童とその担当教員を幅広くバックアップできるシステムの基礎が形になりました。
この実践の中に、注目すべき点があります。それは、学校の環境や慣行に対して「教師が感じている負担」と、「子どもが感じている負担」とをしっかり切り分けて考え、両方に同じように意識しなくてはならないということです。校務の忙しさや、校内の意思決定や情報共有体制の課題から、子どもを中心に据えて合理的配慮の対話ができないことがあります。しかしその理由を、教師個人の能力のせいだと切り捨てたり、その子どもの特性だけから生まれている問題だと誤解したりと、どちらかだけに押し付けてはいけません。むしろ両方の問題をしっかり切り分けた上で、それぞれに注意を払い、対策が進むような学校や地域を目指す必要があります。
特別支援ニーズのある子どもは、そのニーズが軽視され、本人の努力が足りないせいだと切り捨てられた時、どれほどの孤独を感じるでしょうか。学校社会から学ぶ権利を否定されるわけですから、それは「負担」という言葉で言い表せるような水準をはるかに超えたものです。一方で、求められる支援ニーズに対応できないと感じている教員の中にも、相当の苦しさを感じている人がいます。教師には、周囲から(そして時には自分自身からも)、「教室の指導でも職員室での事務作業でも、あらゆる場面で問題に前向きかつ効果的に対処できること」が暗黙のうちに期待されているようです。負担の解消には、教師一人が孤立してしまわないように教師を支える支援もまた、重要です。同じことは、学級担任だけではなく、特別支援教育コーディネーター、通級担当教員、さらには、管理職の先生方にも、「教員として間違っていないこと」や「強くあること」を暗黙の裡に求められて、孤立を感じている人がいるかもしれません。このような状況は、第1節で述べた「建設的対話」が生まれることを阻んでしまいます。
京都府では、総合教育センターの先生方や地域支援センターのコーディネーターの先生方が連携して、教師を孤立させない支援体制の構築に取り組んできたことを述べました。例えば教員であればだれでも、新任の頃は、学校という文化に教師として適応し、慣行を自らのものとすることに必死です。教師になることに懸命なのです。そのときには、目の前にいる、ひとりのニーズのある子どもを中心に置くことが難しくなることがあります。
教師がいつもの慣行や価値観から少し離れてみることにも、きっかけとなる伴走者の存在が必要です。伴走があれば、教師もまた、いつものやり方から一歩踏み出す後押しを得られます。さらに、学校で慣行になってしまっていることを変えていくには、声を上げる勇気と、関係者とのタフな交渉が必要です。しかし教師がひとりだけでそれを行うには、莫大な熱量が必要です。子どもたちにも、ほかの児童生徒とは違った、自分にとって個別最適な学び方に一歩踏み出すことに対して、教師による伴走が必要であるように、教師にもまた、伴走支援と、その支援へのつながり方を知る必要があります。本研究プロジェクトが長く取り組んできたことは、「読み書きの特別支援ニーズのある児童生徒へのICT活用」を通じて、そのための地域の仕組み作りなのです。毎回、以下の図をお示ししてきました。ここに表した地域システム実装の中には、これまで延べてきた「子どもたちひとりひとりはもちろん、教師も学校も誰一人その尊厳を軽視したり、孤独にしない。その先にインクルーシブ教育がある」という思いが込められています。

今後に向けて
本研究プロジェクトのこれまでを振り返って、「特別支援教育のためにICTの有意義な活用を広げること」の本質は、ICTのデバイスやソフトウェアの機能やその上手な活用方法の中だけには存在しないことを確かめることができました。ICTを子どもたちの社会参加を最大化するために役立てるには、子どもたちの学ぶ権利が自然に保障される社会環境や人々の包摂的な態度が必要ですが、それを教員個人の責任にすると、教員と子どもの間に、負担感というネガティブなループを作ってしまいます。結局のところ、包摂的な社会環境と態度の醸成を支える地域システムの構築と、その運用の継続が肝要なのです。
このことについて、本研究プロジェクト研究に関わる中で、全国の教育センターで一般的に行われがちな、研究・研修・相談の縦割りをなくし、相互に連携した形を目指すべきことを、総合教育センターの皆さんにお伝えし続けて来ました。ある年の総合教育センターの研修では、研究プロジェクトに参加した先生方が講師として登壇してくださいました。フロアからは「読み書きに困難のある児童に、ICT利用で読み書きすること を教えてしまって、その子の伸びしろをつぶしてしまわないかと悩んでいる」という質問がありました。その際、壇上の先生方からは「いろいろな考え方はありますが、まず、関わっておられる児童が、今、日々の学習の中でどのように感じているか、どうしたい、どうなったらいいと思っているかを聞いてみてください」という回答から始まるやり取りがありました。
特別支援ニーズや障害等のある子どもたちは、「あなたはどうしたいのか」という意思の尊重がなされる機会が制限されがちです。実際のところ、「私が決めてあげなくては」と抱え込んでしまう教師や保護者は少なくありません。本人の意思に向かい合うことから、合理的配慮の試行錯誤を始めようとされている先生方の包摂的な態度があらわれたご発言を聞き、研究と研修もまた、この地域の中でつながったと感じて、深い感銘を受けたことを覚えています。
本研究プロジェクトは、8年間の長きにわたり、本当に多くの研究協力者の学校と先生方にご参加いただいたことで、単なるICT活用を超え、学びの本質や地域システムのあり方にまで議論と実践が至る、稀有な取り組みになりました。私自身、数えきれないほど多くの学びを得た取り組みでした。このような機会をくだ さった、そしてともに長きにわたり取り組みをご一緒くださった総合教育センターおよび京都府の皆様に、心よりお礼を申し上げます。最後に、本研究プロジェクトで行ってきたことが、今後の京都府の通常の取り組みとして、システマティックに続いていくことを願い、本稿を閉じたいと思います。
