自分の殻を破る

先輩からのメッセージ

 今回は本人の文中にもありますが、どちらかと言えば控えめ、そんなに前へ、前へと出るタイプではないものの、興味の幅は多岐にわたり、様々なこと真摯に向き合ってきた先輩です。在学中も、卒業後もいろいろと模索して自分の現状を打ち破ろうと努力を重ねてこられました。
 今回のメッセージは Vol1 「ポーランド編」 とVol2「嵯峨野高校編」に分けて掲載します。

Vol1「ポーランド編」
 こんにちは。2019年に京都こすもす科共修コース人間科学系統を卒業した野見山芽久と申します。現在は、東京外国語大学・言語文化学部にてポーランド語を専攻しています。今年の7月中旬まで10ヶ月間ポーランドに留学をしていました。

 みなさんの多くが「なぜポーランドなの?」という疑問を抱かれたのではないでしょうか。私がポーランドという国を選んだ理由は2つあります。
 [難しい言語への挑戦] 1つは、将来は海外と日本を繋げる仕事がしたくて、独学では勉強できないような難しい言語を大学でゼロから専門的に学び習得しようと思ったからです。ポーランド語は世界で最も難しい言語の1つと言われています。例えば、動詞で言えば主語の人称や単数・複数の区別、時制に応じて単語の語尾が19通りに変化するため、1つの動詞に対して19通りの活用変化を覚えなければなりません。その他にも様々な文法のルールがあり、ポーランド語はとても複雑で英語の数十倍も難しい言語なのです。そのようなポーランド語の世界に、私は好奇心を抱き、持ち前のチャレンジ精神で飛び込みました。

 [悲劇の国の熱い思い] 2つ目の理由としては、暗い歴史の中で途絶えることなく伝えられてきたポーランドの文化と言語に心を動かされたからです。ポーランドは3つの大国によって分割され、1795年から123年間、消滅して地図上に存在しなかった過去があります。この分割時代において、学校や裁判所、役所などの公的機関での公用語はロシア語とドイツ語とされ、ポーランド語の使用は禁止されました。さらに、自由な芸術活動も禁止されていました。しかし、ポーランドの文化や言語は失われることなく今日まで残っています。それは、当時の愛国心に燃えるポーランド人が地下で執筆活動をしたり、隠れてポーランド語を子供たちに教えたりと、自国の文化や言語を絶やさないように努力したからです。そのような背景をもつポーランドの文化やポーランド語に魅力を感じ、より深く学びたいと思いポーランドという国を選びました。
 私が留学していたのは、ポーランド北部・トルンという都市にあるニコラウス・コペルニクス大学です。トルンは地動説を唱えたコペルニクスが生誕した街です。それほど大きな街ではありませんが、中世の街並みが残っており世界遺産にも登録されている美しく、とても住みやすい街です。そんなトルンで、ポーランドの文化に触れながらポーランド語を必死に勉強しました。

トルン旧市庁舎とコペルニクス像                                               

 ポーランド留学を経て何より感じたのは、どれだけ良い環境があったとしても、その環境の中でどのような成果や経験を得られるかは自分の行動次第だということです。例えば、ポーランドでの生活は毎日ポーランド語に触れることができ、ポーランド語学習に最適な環境が整っていますが、そのように望ましい環境にいたとしても、外出して積極的に誰かと交流するのと寮の部屋にずっと1人で閉じこもっているのとでは、ポーランド語を聞く機会や話す機会の量に大きな差が生じます。誰かが手を貸してくれるのを待ったり、ただ時が来るのを待っているだけでは何も始まりません。ポーランドでの10ヶ月間で、自分が得るべきものや経験を手に入れるためには自ら行動すること、自らチャンスを掴みに行くことが大切だということを身に染みて感じました。私は消極的で内気な性格ですが、留学期間中は同じ大学の日本学科の授業に参加させていただき、そこでポーランド人の友達を増やす努力をしたり、隣のウクライナでロシア軍の侵攻が始まってからは、ウクライナ支援をしているポーランド人やポーランドで生活しているウクライナ人学生にインタビューをし、それを動画にして配信するなど、自分がポーランドにいるからこそ出来ることを探して積極的に行動するようにしていました。そのおかげで日本では経験できないような様々なことを経験することができましたし、ポーランド語の能力も向上したように感じます。嵯峨野高校に通う皆さんにも、ご自身がいる環境にただ満足するだけではなく、その環境で自分が更に成長し成功するためには何をすべきかをしっかり考え、積極的に行動してほしいと思います。

 次回につづく