研究の指導助言

合理的配慮とICT利用、 客観的アセスメントと移行支援の重要性、アドボカシーの支援
平成30年度 東京大学先端科学技術研究センター 近藤武夫 准教授

はじめに

 ICTを活用した、読むことに困難のある児童生徒の支援に関する総合教育センターの取組は、今年度で3年目となりました。これまでの取組を私の視点から振り返ると、1年目は、学習の大きな困難等を主訴として通級を利用するようになった児童生徒に、印刷された教材を読むことに特異的な困難があるかどうかを検討するためのアセスメントの実施と、アセスメントに基づいて、ICTによる音声読み上げ機能や、「音声教材」と呼ばれる、読むことに関する特別支援教育ニーズのある児童生徒が利用することのできるデジタル教科書を入手して、通級で児童生徒が自立的に学習できるようになるための方法を指導する取組に着手しました。そして2年目には、その取組をさらに1歩進めて、通常の学級での利用や、試験での利用に展開することを目指した取組を行いました。そして3年目は、こうしたアセスメント結果に基づいて提供された支援を、進級や進学時に必要となる移行支援を行うことを目標とした取組を行いました。1年目から一貫して、読み書きに特異的な困難のある児童生徒が、自立した学習者になるためにICTを代替的な学習ツールとして自ら活用するために必要な特別支援教育を、通級を軸として提供することは変わらず取り組んできました。しかし、2年目、3年目のテーマは、その自立的な学習方法を、通常の学級や、試験の場面、進級や進学した先の学級や学校でも、児童生徒が一貫して利用し、学習の幅を広げていくことができるように支援する体制を整備していくことに、取組の軸足が移っていきました。

 この3年間の、研究協力員として参加してくださった先生方による、熱意に溢れる個別の指導の取組と、京都府総合教育センターの先生方による、教室や学校としての支援体制整備の後方支援の取組によって、明らかになったことがあります。それは、現在の教育制度が抱える課題と、その課題に正面から取り組むことで見えてくる特別支援教育の大きな可能性です。以降、その課題と可能性の両面について、これまでの取組を振り返りながら、述べたいと思います。

課題と可能性(1)合理的配慮とICT利用

 読み書きに関する発達障害とそれに類する特異的な学習上の困難をもつ児童生徒には、ICTの活用が効果的です。もちろん、全てのケースにおいて必ず効果的ではありません。しかし個別の教育計画や指導計画を考慮する上で、「ICTの活用をまったく考慮しない」ことは、こうした児童生徒の主体的で自立的 な学習に対して、不利益を生むことに繋がる可能性があります。「印刷物を目で見て読むこと」「鉛筆を使って文字を手書きすること」の困難が、特定の児童生徒にあることを客観的なアセスメント手法を用いて明らかにし、「耳で聞いて読むこと」や、「キーボードまたは音声入力によって書くこと」といった代替手段を使うと、文章理解や解答の内容が相対的に向上することを、証拠に基づいて明らかにすることができます。そうすることで、紙と鉛筆で学習している他の児童生徒とは異なる取り扱いをすることになっても、その学習方法こそが、読み書きに特異的な学習上の困難をもつその児童生徒の学びを支えるものであること、すなわち「合理的配慮(=学習の本質を逸脱しておらず、また過重な負担とならない範囲で、障害を理由として他の児童生徒とは異なる取り扱いを認めること)」であるとして、教室で自信を持って提供できるようになります。

 「合理的配慮」は、単に「特別支援教育全般」を言い換えたものではありません。特別支援教育は、もっとずっと幅広い指導上の理念や方法を表すものですが、合理的配慮は、障害のある児童生徒が、他の児童生徒と平等な学ぶ機会に参加できるように環境等を変更・調整することを意味します。合理的配慮は、学校場面では、障害に関する医学的診断はなくても、学校が特定の生徒に明確な特別支援教育ニーズがあると考えれば提供できることです。また、試験や成績評価の場面など、競争的な場面においてこそ、合理的配慮の提供は意味があります。その児童生徒の強みの評価と理解、進学の選択肢の拡大により、学ぶ権利の保障の広がりが望めるためです。「特定の児童生徒に障害に基づいて異なる取り扱いを通常の学級や教育場面で行うこと」が「平等な学ぶ権利の保障である」という考え方は、日本の教育において、障害者差別解消法が登場してから広がり始めた考え方であるため、教員や保護者、本人にとっては、まだまだ理解が一般化したとはいえないことです。しかし、読み書きの客観的アセスメントと、ICTによる読み書き困難の機能代替による学習機会保障に取り組んだこの3年間は、「合理的配慮」の深い理解を、関係者である私たち全 員で共有することができた年月だったと振り返ることができます。そして、同様の取組が、今後も京都府内の(そして願わくばそれだけではなく全国の)学校で行われることで、合理的配慮の理解が関係者の共通理解として広がることを期待しています。

 また、この3年間の取組では、東大先端研が所持しているタブレットやパソコンと、日本マイクロソフト株式会社が貸与してくださったタブレットを、各学校に貸与する形で実践を行いました。利用法に制限を設けず、児童生徒の自宅への持ち帰りや、破損等についても責任を問わない形で、各学校での実践を行っていただきました。個々の児童生徒の状況に合わせて、他の生徒と異なる個別の取り扱いを柔軟に認めていくことが合理的配慮である以上、その合理的配慮のツールであるパソコン等の利用に、過剰な制限があることは全く望ましくないことです。また、障害だけではなく、貧困も重なり、家庭でICTが使えない児童生徒にこそ、学校等から柔軟に学びをサポートできるICT製品が得られるべきでしょう。

 一般的に言って、全国の学校組織では、ICT(タブレット等のハードウェアに加えて、インターネット接続も含む)の児童生徒による学習利用に「組織的な慣れ」がまだ十分に形成されているとは言いがたい状況が続いています。3年間の取組では、京都府総合教育センターが、特別支援教育ニーズのある学習者のI CT利用方法についてテクニカル・サポートを提供し、学校の体制を後方支援することができたことが重要なポイントでした。合理的配慮として、柔軟なICT利用ができる環境と体制の整備は、今後に残された急務であると言えます。

課題と可能性(2)客観的アセスメントと移行支援の重要性

 この3年間の取組は、ICTを活用した特別支援教育でしたが、もっとも重要であった部分は、意外に思われるかもしれませんが、ICTそのものよりも、客観的アセスメントの実施と、児童生徒の学ぶ場面や進級・進学に伴う移行期の支援だったと振り返ることができます。

 特別支援教育を受ける児童生徒は、「所属学級」、「通級」、「家庭」、「進級・進学後の学校と学級」というように、異なる環境を行き来しながら学んでいます。それぞれの学びの場面で、その児童生徒の困難を関係者が共有することができる、共通した言語や物差しがないと、外見上からはっきりと見える障害があるわけではない児童生徒の、特異的な学習上の困難は見過ごされたり、軽視されたりしがちです。客観的なアセスメントの結果は、共通言語や物差しになることができます。また逆に、困難が特異的であることを示す客観的なアセスメント結果がないと、読むこと・書くこと等の特異的な困難以外の部分に、その児童生徒の独自の強みや才能があることもまた、見過ごされたり、忘れられたりすることもあります。アセスメントは児童生徒に「社会的烙印(スティグマ)」を押し付けることになるのではないか、と教員や保護者から危惧され、忌避されることもあるのは事実です。また過去の歴史では、制度的に、アセスメントの結果から、通常の学級で学びたいという強い希望を持つ本人や保護者の意思が否定されてきた経緯があるのも事実です。しかし、合理的配慮が制度化されたことで、アセスメントが、教育機会からの排除やスティグマの生産ではなく、学ぶ機会の保障を明らかにする意味が生まれてきました。

 また、移行期には、本人の学習上のニーズが軽視されたり、忘れられたりすることが少なくありません。I CTの利用は、他の児童生徒が紙と鉛筆で学んでいる中、一人だけ異なる方法を用いる必要があることから、どうしてもそうした事態が起こりやすくなります。「ニーズとその根拠」が「客観的に共有できる形で」存在することが、特別なニーズのある児童生徒の移行期を支えることができます。この3年間の、研究協力員の先生方とのプロジェクト会議では、様々な考え方や合理的配慮に関する理解度の違いのある関係者がおられる中、根拠を示して関係者とICT利用のニーズについて共通理解を作ろうと先生方が奮闘され、その 学校や地域で過去になかった新しい事例(中学校への移行・支援の申し送りや、試験場面でのICT利用など)を生み出して行かれる姿を目の当たりにして、私自身いつも力づけられる日々でした。

 加えて、これらのアセスメントと移行支援の取り組みは、通級が核となり、京都府総合教育センターが後方支援する形で行いました。このような体制は、本来は、研究事業などの特別な取組が行われる期間だけではなく、永続的に資源が用意されているべきことです。しかし、現実的な視点に立てば、全国の学校が苦労している部分もまた、これらにあることも事実です。今回の取組を基礎として、京都府で継続的な取組が行われることを期待しています。

課題と可能性(3)アドボカシーの支援

 東大先端研では、DO–IT Japan(http://doit-japan.org)という、大学進学や就労を目指す障害や病気のある児童生徒に向けた教育プログラムを長年行なっています。そのプログラムで大切にしていることは、合理的配慮の考え方に基づいてICTを活用し、教育や雇用など社会参加の機会を最大化していくことと、その際に、障害や病気のある児童生徒・学生本人が、自身の意思決定に基づいて、必要だと考えることを周囲に対してセルフ・アドボカシー(自己権利擁護)していくことを尊重しています。一人一人が自分なりの希望や意思決定をはぐくんでいくためには、児童生徒・学生自身が、合理的配慮の元になった理念である「障害の社会モデル」の考え方を知り、自分の障害の個別の状況について理解を深め、ICT等による環境調整によって自分の状況にどのような変化が起こるのかを体験することが重要と考え、さまざまな機会提供を行ってきました。

 学校は、セルフ・アドボカシーを学ぶ場になることができます。ただし、その学びの本質に近づくためには、学校や教員による、時には大人がハッとさせられるような子どもたちの権利主張を公平に受け止め向かい合うことができる、骨太で胆力のある取り組みが必要です。障害の社会モデルや合理的配慮の具体的方法に関する深い理解を関係者ではぐくむことや、アセスメントや移行支援、学習権の保障に効果的に取り組むことができる体制整備が不可欠です。表面的なセルフ・アドボカシー教育は、一つ間違うと、児童生徒自身の権利を保障するためのものではなく、教員にとって扱いやすい子どもを育てる教育になってしまうかもしれない、と(私自身を振り返ってのことでもありますが)いつも自省しながらの実践が必要です。

 「学ぶ権利の保障」は何も障害や病気のある児童生徒に限ったことではありません。すべての児童生徒にとって、共通して必要な観点です。学習障害や発達障害、見えない障害や病気、重篤なアレルギーなど、さまざまな事情は多くの児童生徒に分け隔てなく存在することが認められる時代になりました。視点を変えてみれば、それは児童生徒だけに必要なことではなく、教師自身にとっても、同じようにアドボカシーのニーズが存在することでもあります(教師だって、障害や疾患による合理的配慮を主張しても何もおかしくありません)。すべてにとって、関係者全員にとって望ましい答えはありません。目に見える形で知られるようになった利害や主張の衝突を、忌避すべきことではなく、どのようにお互いに歓迎し合い、認め合いながら、問題のある状況を一歩でも望ましい状況に近づけていくか。教員にとっても、児童生徒にとっても、そのほかの関係者にとっても、公平な立場で話し合える環境と関係作りを目指して行かねばなりません。

 あまり大上段に構えてしまうと、ものすごく大変なことに思えるかもしれませんが、この3年間の取組では、セルフ・アドボカシーの芽生えとそれを支える先生方の働きかけを目にする機会がいつもありました。子どもたちの学ぶ機会を広げたいと願う教師と、ただただ学びたいと望む子どもたちが出会って、先に述べた(1)や(2)のような学びを支える取組が行われる時、やがて子どもたち自身から「私は、こういう方法だったら学べる、こんなふうに学びたい」という言葉が発されます。それがセルフ・アドボカシーの出発点です。

おわりに

 近年、教員の過重労働や疲弊の現状が世間にも知られるようになりました。3年間、学校、教室やその周辺の多くの課題に直面しながらも、ICTを一つの手段として活用し、目の前にいる児童生徒一人一人の学ぶ機会の保障に奔走してくださった、プロジェクトに参加された研究協力員の先生方、総合教育センターの先生方に深く感謝いたします。微力ながら指導助言者を務めましたが、私自身にとって、学び多き日々でした。

 一方で、上述したように、今回の研究事業のような取組が存在した故になんとか実現できたことや、課題感が大きく残され、今後の継続的な取組が期待されることも明らかになりました。今後、インクルーシブ教育が発展していく中で、多数派の生徒の学び方と、それ以外の学び方を必要とする児童生徒の間では、両者を共に包摂できるユニバーサルな学びの場が拡大していくことは間違いないでしょう。しかし同時に、両者のコンフリクトがなくなるわけでもないこともまた、真実です。これも繰り返しになりますが、コンフリクトは忌避するべきことではなく、両者が相互理解を深めて望ましいあり方に向かうために、歓迎すべき対話の入り口でもあります。そしてそのような対話の場は、すべての子どもたちと私たち教員にとって、学びに満ちた機会でもあります。「個別のニーズのある児童生徒の教育保障にICTを活用する」という切り口が、合理的配慮のみならず、その学びの機会を目に見えるものにする一助となることを祈っています。

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