大山崎町の紹介

歴史とロマンを語る町「おおやまざきちょう」
離宮八幡宮と油座

  大山崎町は京都府の西南端に位置し、大阪府との府境にあります。北は長岡京市と、南は三川合流点を挟んで八幡市と境を接し、東は京都市伏見区と、西は天王山を隔てて大阪府三島郡 島本町と境を接しています。
 町の歴史は古く、今から2万年以上前に人の営みが始まりました。縄文・弥生時代、集落が作られ、やがて古墳時代、鳥居前古墳や恵解山古墳に葬られた大きな力を持つ豪族の支配下の下、村は大きく発展していきました。飛鳥時代、孝徳天皇が宮を建てたことが「日本書紀」に記され、山崎(大山崎)の地名の初見となります。
 以降、当地は交通の要地として注目されるところになり、特に長岡京遷都によってその位置を確立しました。 平安京に都が遷るとさらに発展し、駅、離宮、国府などが山陽道に面して設けられ、淀川筋の港(津)は多くの人の往来や、物資の流通で賑わいました。
 やがて鎌倉時代、荏胡麻油生産が活発になり、生産者である神官たちは八幡宮の力の下、油座を結成し、様々な特権を得て原料の仕入れや販売を独占していくことになります。当時の町の賑わいぶりや油で財をなした山崎長者の姿は『信貴山縁起絵巻・飛倉の巻』に一部見ることができ、当時の大山崎の繁栄ぶりがうかがわれます。

離宮八幡宮
観音寺(山﨑聖天)
宝積寺

天下分け目の天王山
 16世紀も末、天下統一を進めていた織田信長は、本能寺の変で家臣光秀に討たれました。それを知った羽柴秀吉は備中高松城攻めを終わらせ大山崎へ向かい、天正10(1582)年6月13日、天下分け目の合戦が、当地で戦われました。合戦は兵力に勝る羽柴軍が短時間で勝利し、敗れた光秀は敗兵を連れ、坂本へ逃れる途中、山科小栗栖で殺されました。早速秀吉は天王山に城を築き、一時大山崎は城下町となりました。その城下には茶人千利休も住し、茶会がたびたび催されたといいます。
  江戸時代、幕府から離宮八幡宮神領として、独自の自治を認められ、社家中が支配を行いました。幕末、禁門の変の余波で街道沿いの寺社、民家160軒余りが焼失し、近代の幕開けはその復興から始まることになりました。明治の廃藩置県によって京都府乙訓郡に属し、明治22年の市町村制施行に伴い、三カ村が合併して大山崎村が誕生しました。昭和30年代後半からの人口急増によって昭和42年11月、町制を施行し、今日に至っています。
 現在、府道(西国街道)沿いや山麓に住宅地が広がり、町の中央部に主要幹線道や鉄道が南北に通っています。東部は桂川との間に工場地帯が形成され、天王山と淀川にはぐくまれた町は豊かな自然と歴史の中で今日も発展をし続けています。

天王山と三川合流
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