7月15日(水)に、4年生が三和創造学習の一環で大岼水路の散策をしました。今回の学習の目的は、「①灌漑用水を確保するための先人の工夫や努力を知ることができる。/②細見谷の山林を見ることで、農林業の現状、課題を知ることができる。」でした。
行程は、①暗渠碑の見学(中出)→②大岼水路の散策1(田ノ谷~中出)→③大岼水路の散策2(中出)→④梅田神社(中出)でした。中出の河野様に講師をお世話になりました。
まず、中出にある暗渠碑の前で、石碑の解説と、当地に水路建設が行われた経緯、使われた道具などについて教えていただきました。「暗渠」とは、「外から見えない位置に設置された水路」のことです(対義語は、「開渠」と言います)。中出の暗渠碑は、明治4(1871)年2月に、田ノ谷大岼から中出寺の段までの約2kmの水路が造られたことを記念して、大正4(1915)年に建てられました。
明治3(1870)年に、中出村の百姓たちが、綾部藩の九鬼大隅守に、水を引いて米が作れるようにしてほしいとお願いをしました。同年9月に測量が開始されてから、村人567人が水路建設の作業を行い、翌年2月に完成しました。現在のようにショベルカーやブルドーザーがない時代だったので、作業は、ほぼ人力のみでで行われました。鶴嘴や鍬で掘り出した土を畚で運び出し、水路の底の部分は、蛸で固めていきました。



ということで、いざ、大岼へ。道中、4年の子どもたちは、河野さんの大阪・関西万博にまつわる話をたくさん聞かせていただき、感心しきりでした。



河野さんは、細見小学校中出分校のご出身です。同校の校舎は、校庭の銀杏の木とともに大阪・関西万博の「Dialogue Theater -いのちのあかし-」パビリオンに活用されています。そのパビリオンをプロデュースされた河瀬直美さんから「是非に」と頼まれて、中出分校の思い出を語ることになったとのことです。そして、その様子は、「Dialogue Theater -いのちのあかし-」パビリオン内の「森の集会所」で毎日上映されており、多くの来場者が視聴しています。



いよいよ水路に向かって降り立ちます。そのためには、前日に河野さんが張ってくださったロープを使って斜面を降りないといけません。冒険心をくすぐられるそのシチュエーションに、多くの子どもたちのテンションが急上昇していました。



降りた所は、川ですが、少し先に堰がありました。これが、大岼井堰です。堰によって川の水位を上げて水量を確保した上で、取水口から水路に水を流すよう設計されていました。



水路には、水量を調節するための板が取り付けられていました。こうした箇所は、この後もたくさん見ることができました。



歩き始めてすぐは、川がすぐ隣にありましたが、そのうちにどんどん川が低い位置へ行ってしまいました。それが自然の摂理なのですが、下流の水田の標高に鑑みた水路がないと、水を供給することができないということがよく分かりました。そんな水路をどうやって建設したのかというと、たいまつを持った村人を斜面に並んで立たせ、水路の最適な勾配を測ったのだそうです。
山中の水路に足を浸して歩く非日常感に、子どもたちは大喜びでした。倒木や露出した大きな木の根も、その喜びを助長させるアイテムでした。






途中、開けた場所に出て、小休止。水路の幅などを計測しました。これは、後に歩く水路と比較するためです。これまで歩いた水路の幅は、約70cmでした。長靴に溜まった水を出したら、次なる水路へ。



水路の両側に、段々になった水田跡がありました。昔は、こうした所に水を送っていたのです。
6年が細野峠を歩いた時にも、同様のものを見ることができました。詳しくは、「6年三和創造学習 細野峠を歩きました | 福知山市立三和小学校・三和中学校(三和学園)」の記事をご参照ください。



もう少し歩くと、水門がある場所に来ました。これは、山から流れ落ちる水を水路に導くための設備です。全長約3kmもある長い水路なので、大岼井堰の取水口から取り込んだ水を、途中の田んぼにどんどん引いていくと、雨の少ない年などは、最後の方まで水が行かなくなることがあります。そこで、たくさんの山水が流れている所では、それを受け止めるように工夫したのでした。よく考えられています!



バスで中出大池へ向かいました。子どもたちが先ほどまで歩いていた水路を辿っていくと、この池に到達するのです。池の面積は、1500㎡あります。



大池へ水を入れるところを見せていただきました。子どもたちから歓声が上がっていました。



この先の水路は、子どもたちが歩いた所と比べて明らかに細くなっていました。その幅は、約40cmでした。



梅田神社に向かって歩いていると、稲が風になびく様子を見た児童が、「波みたい。」とつぶやきました。河野さんがすかさず、これを「青田波」と言うんだと教えてくださり、一句詠んでくださいました。それが、今回の記事のタイトルにある「青空の 野外活動 青田波」です。お見事です、河野さん。



水田の水量を調節するために、毎日その様子を見にいかなくてはなりません。河野さんは、朝5時に起きて、順番にご自分の水田を見て回るのだそうです。そうした苦労が美味しいお米につながるのだと改めて思いました。
水田に水を引く様子を見せていただきました。ちょうど良いサイズの植木鉢や、そこそこの重さの土嚢を使っておられました。勢いよく水が入っていく様子を見ることができました。



今回は、特別に、この辺りの水田に水を引く山の水路も見せてくださいました。再び山へ向かう子どもたちの足取りは、軽かったです。
ここでも、水を送る様子を見せていただきました。大池から結構離れた場所でしたが、すごい勢いで落ちていく水に驚きました。






水路散策の最後は、梅田神社でした。神社の正面には、「農魂」と彫られた石碑が建っています。それによると、かつて中出には、5万4000㎡の水田があったと記されていました。今、水田は、とても少なくなっていますが、春の田植え前には、水路の利用者全員で冬の間に溜まった土砂をさらえ、夏には、水路際に生える草を刈るなど、協力し合って米作りをされているのだそうです。
また、大雨の時は、山中の水路から水が溢れて、横の土を流してしまうので、役員を決めて、それぞれの箇所で谷に水を落とすこともしています。
米作りに関わる先人たちの工夫や努力をたくさん学ばせていただくとともに、水路を歩くという大変貴重な体験をさせていただきました。河野様、ありがとうございました。


