7月2日(水)に、6年生が三和創造学習の一環で、細野峠、龍源寺、友渕城(西の古城)を訪れました。
まずは、細野峠から。菟原中にある平成20(2008)年度菟原小学校卒業記念制作の「山陰道 細野峠案内図」によりますと、「細野峠は三和町菟原中から大身へ越える、全長約2kmの峠をさし、『ほうの嶺』『朴の峠』などの呼び名があります。山陰道の要衝として数多くの歩行者があり、小式部内侍の『大江山いく野の道のとおければまだふみもみず天橋立』にも詠まれているように、大江山生野道にあたります。」と説明されています。


今年度の6年生は、大身から細野峠に入りました。と、その前に…。大身側の入り口には石碑が立っていて、「これより北 京都」と彫られています。まずは、その石碑を一人一人順番に見ました。



いよいよ峠道へ。今日の天気は、晴れ時々曇りで、蒸し暑かったです。しかし、峠道では、木々が枝を伸ばしていて、木陰の中を歩くことができ、暑さが和らぎました。そして、道の中央には石畳が敷かれていて、歩きやすかったです。かつては、地元の人たちの生活道路であるだけでなく、旅人が行き交い、大名行列が参勤交代にも使用したという道。石畳のお陰で、荷車や駕籠がスムーズに通行できたのではなしでしょうか?



少し歩くと、「大身騒動晒場跡」に来ました。万延元(1860)年11月、大身村の百姓を中心にした一揆勢が年貢の減免を掲げて細野峠に集結しました。やがて上大久保村から船井郡中・南部の須知・殿田方面にまで一揆は拡大しました。一揆勢は、庄屋や酒屋などを打ち壊しました。その首謀者は獄門に処され、この場に首が3日間晒されたということです。見せしめとしての晒し首ですが、それだけ人の往来が多く、その効果が見込めた場所だったのだと言えます。子どもたちは、大規模な一揆が三和にもあったということを初めて知るとともに、その決着の仕方に驚きを隠せませんでした。



頂上付近に来ました。江戸時代には「旅ブーム」も相まって、茶屋があったらしいです。今は、峠道の横に広がるそれらしい平たい土地があるだけですが、「この辺りで休憩したいなあ。」と思いそうな、絶妙の場所でした。



茶店跡のすぐ先が峠の頂でした。そこから少し下ると、またまた開けた一角がありました。立て看板によりますと、ここは、かつて多くの通行人の信仰を集めた、百観音堂円通庵の跡地でした。円通庵は、弘化元(1844)年、菟原中村の龍源寺の良英和尚と地元有志によって建立されました。そして、西国、秩父、板東合わせて100か所の観音像が安置されるとともに、四国88か所やその他札所の名所の砂が収められ、道行く人を見守っていました。後に円通庵は、無住となり、観音堂と観音像は、菟原中の龍源寺に移転されました。



さらに下ると、観音清水がありました。ここは、往古より観音山と呼ばれていました。円通庵の古井戸から湧き出る清水は、峠を行き交う人々の喉を潤し、観音に参詣する一時の安らぎを与えていました。向かい側には茶屋があり、かつては、ここで菟原産の茶を清水で点てた煎茶が振る舞われてていたとのことです。


菟原地区には、清水が湧き出る所が何か所もあり、それが人々の飲み水や農業に利用されていたとのことです。菟原中に「菟原しゅうず」というバス停がありますが、「しゅうず」とは、「清水」が語源ではないかと吉田地域講師が仰っていました。
さて、峠道を歩いていると、道の両側に平たくなった土地が幾つも連なっていることに気付きました。これは、水田の跡だそうです。今は、戦後に杉などが植林されて判別しにくくなっている所もありましたが、確かに水田の跡に見えてきました。



農業、林業が盛んだった頃は、山の水や木を管理することが、文字どおり人々の生命線でした。管理の行き届いた山は、木がしっかり根を張り、土地を支えることで土砂災害を防ぎます。豊かな水は、山間に暮らす人々のみならず、下流域にも豊かな恵みをもたらします。
自然を大切にするとは、決して放置することではないのだと気付かされました。峠に入ってから約1時間。学びの多い1時間でした。
さて、6年一行は、円通庵の百体観音が移された龍源寺へ向かいました。そのお話は、また後日お伝えします。お楽しみに。