9月12日(金)に、9年の人権学習として、京都・東九条CANフォーラムや東九条マダンの代表をされていた、音楽家の朴実様にお越しいただき、「共に生きる社会を求めて~東九条マダンに託す願い~」と題してご講演をお世話になりました。
朴さんは、在日朝鮮人2世として京都市で生まれました。戦後、小学校に入学しますが、まだ日本全体が貧しく、人々の人権感覚も現在とは違っていたので、貧困と差別の辛い時代を過ごされました。そんな中で培われたのが、「日本人となろう。」という気持ちでした。
中学生の時に聴いた、フェリックス・メンデルスゾーン(ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ)の『ヴァイオリン協奏曲』に涙を流すほどの感動を覚え、「こんな美しい世界で生きていきたい。」と音楽家の道を志すようになりました。定時制高校4年の時に、音楽大学の先生に弟子入りしました。「死に物狂いで」練習を重ね、大学の作曲科に合格され、そこから、「いつか教職を取って教壇に立ちたい。」と夢を膨らませました。
しかし、教員免許申請の折に、国籍条項がその夢を阻み、教壇に立つことはかないませんでした。朴さんは、「国籍が違うだけで、こんなことが許されるのか?」と強い怒りをもちました。この思いが、その後の人生における「理不尽なことがあれば、絶対に闘うべき」という考えにつながっていきます。
昭和22(1947)年の外国人登録令により、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人」は、外国人としての登録を行い、「常に登録証明書を携帯」しなくてはいけないことになりました。
昭和27(1952)年のサンフランシスコ平和条約の発効により、戦前の旧・植民地出身者は、「日本国籍を喪失した外国人」となりました。そこで、日本国籍を失った台湾人、朝鮮人が再び日本国籍を取得するための「帰化制度」ができました。しかし、帰化に際し、戸籍は日本的氏名でなければなりませんでした。
朴さんは、日本的氏名から民族名を取り戻す運動に深く関わり、裁判により、民族名を勝ち取りました。さらに、帰化時に行われていた10指指紋返還訴訟を起こし、これにも勝訴しました。
平成4(1992)年、朴さんは、ハングル語で「広場」を意味する「マダン」という言葉を冠した「東九条マダン」の開催を呼びかけました。「日本人と在日韓国・朝鮮人がいがみ合うのはおかしい、みんなが解放される祭りをつくりたい」という思いから始めたものでした。
東九条マダンでは、韓国の伝統音楽サムルノリと、日本の和太鼓のコラボレーション「和太鼓サムル」が行われています。その構想は、平成5(1993)年に開催された第1回の東九条マダンから朴さんの中にあったそうです。動画を視聴しましたが、2拍子の和太鼓と3拍子のサムルノリが絶妙にシンクロする演奏は、不思議な魅力を放っていました。毎年作り替えられていて、今では東九条マダンの名物となっているとのことです。
質問コーナーでは、「差別について、昔と変わった日本人についてどう思いますか?」という生徒からの質問に対し、「江戸時代に行われていた朝鮮通信使をが新しい形でよみがえらそうという動きがあって、とても良いことだと思うが、一部に歪められた情報が発信されたりする状況があるのは残念でならない。」とおっしゃっていました。






講演の終盤には、朴さんのピアノで、フレデリック・フランソワ・ショパンの『幻想曲』と、朴様ご自身が作詩作曲された『ウリエ・アボジ・オモニヨ』(わたしたちの父よ母よ)の弾き語りをご披露くださいました。『ウリエ・アボジ・オモニヨ』の歌詞は、「玄界灘の荒波を越えて日本に来たが、自分たちを育ててくれた父母を忘れはしない。」という内容です。講演を聴いた後の演奏だったので、それぞれの曲に対する朴さんの深い思いが伝わってくるように感じました。



最後に、生徒代表が、「国籍や民族での差別があって悔しい。東九条のようにみんなが楽しんでいる様子を見たので、そいいう状況を前進させていきたい。」「東九条マダンでの和太鼓とサムルノリのコラボについて初めて知れて良かった。」と感想を交えながらあいさつを行いました。


朴様、お忙しい中ご講演ありがとうございました。人権問題について深く考える貴重な時間となりました。生徒たちの今後の生活につなげられるように努めていきたいです。