7月2日(水)に実施した、6年三和創造学習の最終レポートです。
一行がこの日最後に向かったのは、友渕城でした。明智光秀が丹波攻略の基地として築いた山城と伝えられています。山にある城なので、「山城」です。友渕川を挟んで東西に「東の古城」「西の古城」があり、西の城は、「北支城」「南支城」の2か所から成ります。これらを全てを合わせて「友渕古城跡」と呼びます。今回6年生が登ったのは、「西の古城跡北支城」でした。
この日は、京丹波町教育委員会社会教育課文化・文化財担当の山下様にお越しを願い、西の古城について詳しく解説していただきながら登ることができました。



急な山道を登り、北支城に至る鳥居の前に来ました。北支城は、万灯山山頂から北方へ約300m、標高約210mの尾根にあります。現在は、城ではなく神社となっており、南から金比羅神社、天満宮・秋葉神社が祀られています。



割と平坦な道に出ると、そこは、城に至る「土橋」でした。文字どおり「土の橋」で、深めの堀を掘って、それを横断するように橋を掘り残した形状でした。橋の幅は、わざと狭くしています。狭いと、一度に攻めてくる人数が少なくなるからです。また、敵が攻めてくる前に、堀の上の土橋を切ってしまえば、もっと攻められにくくなります。中世の城は、籠城して敵を迎え撃つための砦でしたので、そのための工夫を知ることができました。よく考えられています。



金比羅神社の鳥居の左側には、土塁の跡がありました。「土塁」とは、曲輪の端に盛られた敵の侵入を防ぐための堤防でした。「曲輪」は、「郭」など様々な字が当てられていますが、簡単に言うと、城の平らな部分のことです。堀や曲輪を造る際に出た土砂を土塁に使ったそうです。無駄がない!
金比羅神社の先には、天満宮、秋葉神社と続いていました。









一番の奥の秋葉神社は、令和2(2020)年1月に新たに建立された社で、かつての社が中に鎮座していました。地元の方々がいかに大切にしているのかをうかがうことができました。
社の中には、山の由来が次のように書かれた札が掛けられていました。抜粋して載せます。
「約400年以前、福知山城主であった明智兵庫頭光秀が篠山城の様子を探るために友渕を見いだし、自ら兵を連れて実地検分をした。福知山城に通報する小城を建設するために、山頂を平らにして準備を進めていたのだが、光秀が亀岡城主に任命されたので、その意がままならなぬまま福知山を去った。明治初期、友渕の人々は、この地に火難除けとして金比羅さんを祀った。第2の地点には、光秀の徳を偲んで天満宮を祀り、夏の干魃には村民総出で、夜を徹して焚き火、雨乞い踊りを行った。」とのことです。
そして、山下様お手製の資料と、圧倒的な知識量をもって詳しく解説していただいたことで、戦国時代の山城について、大変よく分かりました。三和町の中世城館は、何と14城発見されていますが、「未発見の城がこの倍はあるのではないか?」と言われました。何だか夢が広がりました。
山下様が最近発見したという炭焼きの跡を教えていただきました。3社に至る入り口の鳥居のすぐ前、急な山の斜面の中腹にそれがありました。今日は、たくさん歩いて疲れている子どもたちでしたが、新発見と聞いて好奇心をそそられ、ほとんどの子が炭焼き跡を見に斜面を登りました。その元気さに感心しました。
上から見下ろすと、炭焼き跡は大きく窪んでいました。かつては、もっと大きな空間がここにあったのだということです。



炭焼き窯のようなしっかりした造りではなかったようですが、排煙のための煙突(?)が残っていました。6年の北山さんが枝を挿して深さを測ってみると、ほぼ身長と同じくらいでした。長年の土砂の堆積により、多くが埋まっていると思われるので、昔はもっと深い煙突だったのではないでしょうか?
見学を終えて、炭焼き跡から山道へ復帰するのがなかなか大変でした。写真のように、かなりの高低差があり、滑りやすかったからです。しかし、何人かのこどもたちは、ここを駆け下り、なおかつジャンプして山道に復帰していました。さすが三和の子どもたちです!






無事全員下山して、バスに乗ることができました。山下様、吉田様、大変お忙しい中、三和学園の子どもたちのためにお時間を割いてくださり、ありがとうございました。とても濃厚な半日を過ごすことができました。