10月1日(火)に6年生が、江戸時代まで盛んに使われていた京街道を散策しました。「江戸時代の道を歩き、今の国道と比較してどういうコースを通っているかを考える。/江戸時代の街道をイメージして旅を味わう。」というのが、学習のねらいです。
今回、大身の細野峠から三和学園へ至る京街道を散策しながら、江戸時代を偲ぶ遺物などを見ていきました。そのコースは、ざっと ①細野峠石碑【大身】→②龍源寺(りゅうげんじ)百観音堂→③脇本陣跡【菟原中】→④バンド地蔵→⑤両橋→⑥本陣跡→⑦疣(いぼ)地蔵【柳瀬】→⑧道分かれ地蔵【柏田】→⑨疣地蔵【辻河内ヶ野】 でした。
まずは、バスで菟原地区の大身口へ行き、細野峠の石碑を見ました。細野峠は、菟原中へと至る約2kmの峠で、平成8(1996)年に文化庁から「全国歴史の道百選」に選ばれています。江戸時代までは、山陰道の要衝として数多くの通行者がありました。その峠を、菟原小学校や三和学園の児童が、幾度も踏破してきました。しかし、今年度は全市的に熊の出没が多いので、断腸の思いで峠越えを断念しました…。
とは言え、少しだけ峠に入りました。今年度は、これが限界。



大身口に戻り、石碑を見ました。石碑は、三和町と京丹波町の境に立っており、「これより北 京都」と刻まれています。記念に撫でていく児童が何人もいました。



次に、龍源寺へ行きました。百観音堂には、かつて街道沿いに設置されていた観音像33体を始め、100体の観音像が安置されています。弘化元年(1844年)に龍源寺良英和尚や住民の発起で建立されたお堂で、西国霊場33所ほか秩父34所、坂東33所の観音像を合わせて計100体を安置しているというわけです。100体の金色の観音像は、荘厳な雰囲気を漂わせていました。



龍源寺を後にする時、目の前に鹿倉山が見えました。鹿倉山は、標高548ⅿの三和町で最も高い山です。秋空にそびえる鹿倉山は、とてもきれいでした。「みどりなす鹿倉山を仰ぎつつ 若木もはえる学舎に やさしく元気にはげむ子の のびるわれらの菟原校」という菟原小学校校歌3番が浮かんできました。


続いて、脇本陣跡を訪れました。江戸時代に大名クラスが「本陣」に、家来が「脇本陣」に宿泊したそうです。今は民家となっており、お住まいの方から、江戸時代に宿屋として利用されていた話を詳しく聞かせていただきました。その後に、菟原小学校平成20年度卒業記念制作の「山陰道細野峠案内図」を見学しました。しっかり調べて作られており、皆感心していました。



一行は、バンド地蔵に辿り着きました。バンド地蔵は、バンド坂にあり、江戸時代の元禄期に旅の職人が造ったものとも、美濃国の武士が娘の供養のために建立したとも言われています。疫病から子どもを守ってくれるそうで、動かすと災いが起こるという言い伝えがあります。子どもたちは、興味津々で地蔵を取り囲んでいました。



昭和13年(1938年)に完成し、菟原中と菟原下をつないでいる両橋を渡って、本陣跡を見学しました。江戸時代には、街道沿いに本陣などの宿屋が多数ありましたが、明治期に旧国道が整備されると、京街道を使う人が減って宿屋も減っていったとのことです。



街道沿いには、珍しい疣(いぼ)地蔵が設置してありました。お参りして疣を治してもらうのですが、お願いの仕方が変わっています。菟原下一柳瀬の疣地蔵は、地蔵の首を紐で縛ってお願いをします。願いがかなうと、紐を解いてお礼をします…。辻河内ヶ野の疣地蔵は、土の団子を供えてお願いをします。願いがかなうと、本物の団子を供えてお礼をします…。お地蔵様の扱い、それでよいのか?と思ってしまいますが、とてもユニークですね。


旅人の安全のために、分かれ道に設置された地蔵もありました。菟原下柏田の道分かれ地蔵です。令和の時代にあっても、昔のままの場所にずっと置かれている地蔵です。「右・篠山 左・京」と刻まれており、今でも通行人の安全を大切にされているということに感動を覚えました。きっとこれからも、道分かれ地蔵は、この地で人々の安全を見守ってくれるのでしょう。


とても有意義な半日でした。暑い中でしたが、皆真剣に学習に向かっていました。地域講師の吉田先生、ありがとうございました。
実は、昔の道を散策する学習には、続きがあります。次回は、10月17日(木)です。次は、どんな発見や感動があるのでしょうか?