去る2月28日(金)に、9年生が白米山校長から、マグネット付き木材工芸品のプレゼントを頂きました。
3月7日(金)には、8年生もその機会を得ることできました。(7年生は、昨年度プレゼントされています。)
初めに校長から、脳科学者・中野信子さんの言葉を引用しながら「続けることが大事」という話をしました。人類の進化の流れで、ネアンデルタール人、クロマニョン人、ホモ・サピエンスは同時期に生まれました。しかし、ネアンデルタール人やクロマニョン人は、歴史の中で姿を消し、ホモ・サピエンスが生き残りました。ネアンデルタール人もクロマニョン人も、ホモ・サピエンスを凌ぐ体躯を誇り、ネアンデルタール人に至っては、脳の大きさもホモ・サピエンスより大容量でした。では、なぜホモ・サピエンスが生き残れたのでしょう?ホモ・サピエンスの脳は、美を司る前頭前野が発達していました。洞窟の中に壁画などを残しています。極論ではありますが、「美を追求することにより、ホモ・サピエンスは生き残った。」ということが言えます。つまり、「上手い・下手、自信のある・なしに関係なく、結局やり続ける人が残っていく。」ということです。だから、「続けることが大事」なのです。8年の皆さんも、こうと思ったことは、やり続けてほしい、と語りました。
また、「これをやりたい、と思うことを続けていると、『続けられる人』に出会う。」という話から、次の3人から影響を受けたという話をしました。
①野澤玲奈…元AKB48のメンバー。父親の仕事の関係で3歳からタイに、4~7歳までオーストラリアに、11歳~15歳までインドネシアに住んでいた。中学1年の時、ジャカルタにJKT48ができて、その第1期生となる。JKT48とAKB48の兼任から平成26(2014)年AKB48に完全移籍。令和元(2019)年に芸能界を引退。日本語、英語、インドネシア語と3か国語が話せるトライリンガル。彼女がジャカルタ日本人学校に在籍していた小学校5年時、白米山教諭が授業を教えていた。
②石田博三…滋賀県立大津東高等学校出身で投手。甲子園出場は果たせなかったが、ドラフトで昭和33(1958)年~昭和39(1964)年大阪タイガース(1961年~阪神タイガースに改称)の外野手として在籍。昭和38(1963)年には自己最多の39試合に出場し、うち9試合にレフト、ショートとして先発。同年8月に最初で最後のホームランを打った。引退後は、スポーツ用品店などに勤務。昭和54(1979)年に、阪神タイガースのコーチ補佐として現場復帰するが、翌年退任し、フロント入り。選手の年俸の査定資料作成を行う査定担当となり、管理部長まで昇進した。平成14(2002)年に退職。60歳になっても、還暦野球をしたり少年野球の指導をしたりするとともに、フルマラソンも走っていたとのこと。令和5(2023)年死去。享年83歳。白米山校長の奥様は、石田さんの娘である。
③マザー・テレサ…本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。「マザー」は指導的な修道女への敬称で、「テレサ」は彼女の敬愛した19世紀フランスの修道女リジューのテレーズにちなむ。昭和21(1946)年に「全てを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように。」という啓示を受け、修道院を離れて活動することを決意。昭和23(1948)年に修道院を出て、インドのカルカッタで学校に行けない子どもたちに街頭での無料授業を始めた。昭和25(1950)年には、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのない全ての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的に「神の愛の宣教者会」を創立した。テレサは、修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになった。昭和27(1952)年、インド政府の協力でホスピス「死を待つ人々の家」を開設、以降ホスピスや児童養護施設などを開設していった。ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動に対し、世界から多くの援助が集まったことで、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活動するようになった。昭和54(1979)年にノーベル平和賞を受賞した。受賞理由は、「長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした。」であった。平成9(1997)年死去。享年87歳。亡くなる数か月前、教職に就いて間もない白米山教諭は、マザー・テレサに会っている。



ということで、プレゼントの時間がきました。校長とじゃんけんをして、勝った人から3つずつ木材工芸品を頂けます。生徒たちは、目を輝かせて選んでいました。






みんな、頂いた作品の出来映えにいたく感心しながら眺めていました。



8年生の皆さん、是非とも「これをやりたい!」と思うことを見つけ、それを継続し、「なりたい自分」になってください!