4年生が校外学習で「三和の伝統技術、伝統文化」を学びました

 3月4日(火)に、4年生が満を持して校外学習へ出かけました。事前学習で学んだことを実際に目で見て、触れて、考えを深めるためです。これぞ地域に学ぶ三和創造学習の醍醐味です。

 行き先は、①田尻製縄所【友渕】→②龍源寺りゅうげんじ百観音堂~八幡はちまん神社【菟原中】→③梅田神社【菟原下一】→三和郷土資料保管倉庫【千束】でした。

 まず、友渕の田尻製縄所を訪れました。こちらで作られている藁縄わらなわの種類や、その製造の技術、仕事で大切にしていることなどを伺いました。田尻製縄所は、昭和35(1960)年に今の代表のお父様が創業されました。当時は、周辺で稲作を営む農家がたくさんあり、藁が容易に入手できたとのことです。しかし、次第に農家が減るととともに、コンバインの普及により藁が入手しにくくなってきているので、鳥取県や、遠く栃木県など、全国各地に取りに行かれているとのことでした。

 田尻製縄所には、年間を通して注文が止むことなく来ているので、年中縄をなっておられるのだそうです。縄は、「」という単位で太さを表しており、1分は約3~3.5mmです。リールに巻き取った1巻きを「1玉」と呼び、「○分縄を○玉」あるいは「○分縄を○㎏」という風に長さではなく重さで注文します。 

1.5分縄、2.5分縄、3.5分縄、そして、ちょうど栃木県産の藁があったので、それらを触らせてもらい、持ち上げてみたりしました。意外と重いことに驚く子どもたちでした。

 次に、縄をなう機械(製縄機せいじょうき)の実演を見せていただきました。60年ものの製縄機は、すでに生産されていないので、田尻代表が部品を製造したりしながら改良を加え、今も使い続けておられます。

 穂先をローラーで研いで整えた藁を2箇所にセットし、製縄機を動かします。すると、藁がつながれながら縄となり、大きなリールに巻き取られていきます。子どもたちは、目をそらすことなく見入っていました。途中、縄が切れるハプニングがありましたが、田尻さんは慣れた手つきで縄をつなぎ、作業を再開しました。さすがです!

 製縄機で巻き取られた縄には、所々に藁がはみ出しています。今度は別の機械で、そのはみ出した藁を削り取っていくところを見せていただきました。完成した縄を奥様が手際よく縄で縛って、納品できる状態にしていきました。触らせてもらうと、その滑らかな手触りに驚く子どもたちでした。

 入荷した藁を貯蔵している2階を見せていただけました。ワクワクしながら階段を上ると、びっくりするくらいの藁が置いてありました。

 田尻製縄所では、年間2万玉の縄を作るそうです。そこには、京都で行われる祇園祭の山鉾やまほこを組み立てる縄500玉も含まれます。丈夫で衝撃を吸収する程よい硬さの上質の縄は、ここでしか作れません。しかし、製縄機を使っても、一日6玉しか作れないとのことです。時には、納期を守るために夜中までかかることが何日もあります。だから、一年中働いているのだということです。

「一つの仕事を続けるということは大変。これまで何回もやめようと思った。でも、がんばってきた。これからも、体の続く限り続けていきたい。それほど貴重な仕事だと思っている。」

「あんたらには、夢がある。がんばって立派な大人になってよ!」

 奥様の言葉に「はい!」と大きな声で返す子どもたちでした。 

 続いて4年生一行は、菟原中の龍源寺百観音堂にやって来ました。百観音堂には、その名のとおり100体の観音像が安置されています。弘化元年(1844年)に龍源寺良英和尚や住民の発起で建立されたお堂で、西国霊場33所ほか秩父34所、坂東33所の観音像を合わせて計100体を安置しています。初め、西国の33体でお堂を建てようとしたそうですが、予想以上に寄付が集まったので、100体の観音像を集めたとのことです。金色に輝く100体の観音像は、壮観でした。

 百観音堂のすぐ隣に八幡神社に至る鳥居があり、それをくぐって階段を上ると社殿に着きました。社蔵の天明3(1783)年の再建棟札が龍源寺住職の筆によるものらしく、明治の神仏分離以前は、寺と一体であったようです。本殿は、19世紀前期の建立で、誉田別命ほんだわけのみこと(八幡神)と菅原道真すがわらのみちざね紀貫之きのつらゆきが祀られています。

 紀貫之と言えば、百人一首に「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の ににほひおいける」(あなたは、さあいかがでしょうか。あなたの心は量りかねます。でも、懐かしい故郷の花は、さすがに変わらず、昔のままに咲き香って迎えてくれていますね。)という短歌がある歌人でもあります。そこで、「短歌を探そう!」ということになりました。すると、社殿の脇に割と大きめの読み札(?)が掲げてありました。

 菟原下一の梅田神社にやって来ました。祭神は、天児屋根命あめのこやねのみことと紀貫之。文治5(1189)年に、梅田七社の第一として建てられました。「梅田七社」とは、友渕の春日神社、細見辻の梅田神社、高杉の春日神社、多紀郡草山郷の梅田春日神社、同郡藤坂の梅田神社、同郡小原の梅田神社を指します。

 菟原下一の梅田神社には、中井権次一統なかいごんじいっとうのそれはそれは見事な彫刻を見ることができます。「中井権次一統」とは、徳川家康召し抱えの宮大工、中井正清の流れを受け継ぐと言われ、神社仏閣の装飾彫刻を得意とする彫刻家集団です。梅田神社で特に驚かされたのは、社殿の両脇にある透かし彫りで、何と表と裏が対になるように、すこぶる精緻に彫られています。表で正面を向いているおじさん(?)が、裏を見ると後ろ姿になっているのです。そのほかにも、多くの動物たちが社殿全体に配されているのですが、そのバランスと一つ一つの完成度に感心するばかりでした。

 この日最後に訪れたのは、千束の三和郷土資料保管倉庫でした。ここには、恐らく市内随一の質・量を誇る資料(史料)が保管されています。

 入り口付近に、人力車がドンと鎮座していました。大正期に製造され、初代福知山市長・高木半兵衛が愛用していたものだそうです。市庁に登庁する際に使われていたようです。今で言う公用車的な感じでしょうか?

 その奥には、手動の消防用ポンプや、水をかける管鎗かんそうとノズルを見せていただきました。管鎗とノズルは、実際に触らせていただきました。ほとんどが木製部品なので、大きさの割に軽かったです。今でもサイレンが鳴らせる昔の消防車も展示してありました。手回しサイレンは、現在のものより低めの音程で、柔らかな感じのがしました。

 時代劇で殿様が乗っていることでお馴染みの駕籠かごを見せていただきました。ただし、明治初期に作られた婚礼用のものです。花嫁さんが乗っていたのでしょうか?駕籠の中も見ることができました。むしろが敷かれていて、背もたれが設置していました。

 藁を柔らかくするための藁打機わらうちきや、製縄機が展示してあり、動かしてくださいました。どちらも手動式なので、子どもたちは、先ほど田尻製縄所で見た機械と比べながら見学していました。

 小部屋に入ると、所狭しと昔の道具類が置かれていました。ブラウン管のテレビに黒電話にお湯を入れて使うアイロンやフィルム・カメラなどなど、枚挙にいとまがありません。子どもたちは、興味津々でこれらを見学し、触れさせてもらっていました。

 最後に、氷を入れて使う冷蔵庫を見せていただきました。明治に入ると、日本でも人工氷が作れるようになり、明治後半に家庭用の氷冷蔵庫が普及したようです。上下2枚の扉があり、上段に氷を、下段に食べ物を入れ、氷の冷気で食べ物を冷やしていました。

 いろいろと貴重なものがたくさん見られて、良い学習ができました。お世話になった皆様、ありがとうございました。

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