10月17日(木)に6年生が、三和の道散策第2弾を行いました。「今も残る江戸時代の京街道、明治時代の旧国道、現在の国道の路線の違いを知り、その路線が選ばれた最大の理由を考える。/旧国道の遺構、三和以西の京街道の遺構から学ぶ。」というのが、学習のねらいです。
今回は、バスで移動しながら、主に旧国道沿いに残る、江戸・明治時代の遺構を散策しました。そのコースは、ざっと ①旧国道遺構【大身日後(おおみひしろ)】→②旧・菟原郵便局、旧・商店街【菟原下一】→③旧国道遺構【辻】→④旧国道遺構【千束下の段】→⑤寺尾校跡【寺尾】→⑥群是(ぐんぜ)萩原工場跡と旧・商店街【萩原】→⑦生野校跡【生野】→⑧生野宿【生野】→⑨京街道【生野】 でした。
まず、大身の旧国道跡に行きました。明治時代に入ると、旧国道が整備されていきましたが、もちろん、アスファルトで舗装なんてされていませんでした。だから、道路には穴ぼこがたくさんできました。そこで、道沿いに砂利置き場を設け、「じょうふさん」という、京都府の旧国道の土木公営所職員が穴を埋めて平らにしていきました。その砂利置き場が、今も残っています。コンクリートで囲まれた一角があり、「京都府」という文字が彫られているのが確認できます。



続いて、菟原下一の旧・菟原郵便局跡に行きました。ここは、江戸時代には大名が宿泊する本陣でしたが、明治に入り郵便局となり、現在は民家となっています。「菟原郵便局」と書かれた看板や、ポストの土台の石が、大切に残されています。また、開局前後に植樹されたであろう木が、今も立っています。



バスで三和橋を渡って右折すると、旧国道が現れました。そこを歩いて辻の昭和橋の方へ向かいました。途中、砂利置き場がありました。ここには、「第269号」という文字が残っていました。砂利置き場は、いったい幾つあったのだろうと思いました。






バスで千束下の段へ行き、またまた砂利置き場を見学しました。ここの砂利置き場は、今も活用されています。



旧国道を通って権現川橋、寺尾橋と続けて渡りました。現在の国道9号線が整備された後も、こうして残され、大切にされています。



三和荘を右手に見ながら進んでいくと、寺尾校跡に来ました。広い敷地と井戸の跡が残されています。脇に立てられた石碑の正面には、「寺尾校之跡」、右面には、「第三大学区第二十七番中学区/明治六年創設明治廿二年廃校」と刻まれていました。この学校には、創立当初、芦渕の一部と寺尾の子どもたち65人が通っていたそうです。



上六人部の群是(ぐんぜ)萩原工場跡に来ました。今は、そこに運送会社がありますが、近くに石碑が残されています。明治時代の萩原工場には、国の殖産興業政策により、たくさんの女工さんが働いており、この辺りは商店街や映画館などがあって、とても賑やかだったということです。



生野神社にやって来ました。ここには、生野校跡の説明が見られます。創立当初、芦渕の一部と生野の子どもたち118人が通っていたそうです。
徒歩で本陣跡の民家に行きました。立派な塀に囲まれた重厚な造りになっていることが分かりました。さすが本陣。
生野は、百人一首の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」という短歌で有名な所です。「歌枕の碑」というものが建てられていて、それを見ることができました。






子どもたちの先輩たちもこの地を自分の足で歩き、多くを学んできました。そして、令和6年度の6年生もしっかりと自分の足で歩いて、多くを学ぶことができました。これから一人一人がどのような学習のまとめをするのか、とても楽しみです。