10月15日(火)に、2年生が加用地区のポスト、三和郵便局、旧・菟原郵便局を訪ねました。
明治4(1871)年に東京・大阪間で官営の郵便事業が開始されてから、およそ150年。郵便網は、日本全国に張り巡らされており、人々をつないでいます。加用地区のポストは、一日に1回集配されます。子どもたちは、自分たちが書いたはがきを投函する体験をしました。また、吉田地域講師から、ポストが金属製で丈夫に造られていることや、差し出し口が郵便物の盗難を防ぐようになっていること、そして、全国どこへでも郵便物が配達されることを学びました。
加用で大切に保存されている薬師堂の内陣を見せていただきました。本尊は、鎌倉時代中期に造られた薬師如来(やくしにょらい)像です。薬師如来は、左手に薬壺(やっこ)を乗せていることから、病気の平癒を願う人々がよく来られるとのことです。特に耳の病気を治してくれるので、穴の空いた石に紐を通し供えられていました。これは、高杉薬師堂とも共通する供え方です。児童の一人が、石を見付けて、供えていました。また、薬師堂の看板の文字を熱心に視写する児童もいました。
続いて、三和郵便局を訪ねました。吉田局長が子どもたちの質問に丁寧に答えてくださいました。質疑応答の途中に、ちょうど集配車が入ってきて、郵便物を運び入れる様子も見ることができました。
では、子どもたちの質問と、その答えの一部を紹介します。
・三和町、福知山市のポストの数は? → 三和町に34個、福知山市に225個。
・ポストは、なぜ赤い? → 目立つから。昔(郵便制度を取り入れた明治時代)は、黒だった。しかし、トイレと間違える人がいたりして、困ったことになったのだとのこと…。この話を聞いて、だいぶ前の『世界ふしぎ発見!』というテレビ番組で、同様のエピソードを紹介していたのを思い出しました。明治の人々は、ポストに書いてある「郵便」という言葉に馴染みがなく、「垂れ便」と読み間違えて用を足す人がいたとか…。
・郵便局のマークは、なぜ「〒」? → 昔、郵便局を運営していた「逓信省(ていしんしょう)」の「テ」をデザイン化したから。ちなみに、地図記号では「〶」。
・ポストから集めたはがきは、どうなる? → 三和郵便局から福知山郵便局へ運ばれ、そこから配達される地域へ運ばれる。
・郵便局のクルマのナンバーは、なぜ黒地に黄色文字? → 「荷物を配達してもいいですよ。」という許可の証だから。(営業用の軽自動車に付けられるナンバー。)
なかなか鋭い質問がありました。
最後に、菟原下一の旧・菟原郵便局に行きました。ここは、江戸時代には、大名が宿泊する本陣であったといいます。明治に入り、菟原郵便局になりました。現在は、民家となっていますが、「菟原郵便局」と書かれた看板や、ポストの土台の石が、今も大切に残されていました。
郵便制度が始まった頃は、馬で郵便物を運んでいました。例えば、午後6時に京都市内を出発した郵便物は、午前4時に菟原下へ、そして、正午に宮津へと届けられていました。クルマと比べると時間は掛かっていましたが、馬って速いなあと思いました。
また一つ、三和の地域について詳しくなりました。そして、地域で生活したり、働いたりしている人と自分たちの生活との関わりを見付けることができました。お世話になった皆様、お忙しい中お時間をつくっていただき、ありがとうございました。