学校概要

 

学校経営方針

1 学校教育目標【久美浜学園全体】

  ふるさとを愛し 意欲的に学び やさしい心をもち 根気強く努力する子どもの育成

2 重点目標【久美浜学園全体】

  「意欲的に生活・学習に取り組む子どもの育成」
     ~ 子どもの実態や系統性を踏まえた指導 ~
  指導の重点『学力の向上』
   ①基礎基本の徹底
   ②言語活動の充実
   ③家庭学習時間の確保

3 目指す子ども像【久美浜学園全体】

  ア 意欲的に質の高い学力を身につけようとする子ども(知)
  イ 自ら正しく判断、行動し、豊かな心を持つ子ども(徳)
  ウ 心身を鍛え、粘り強く最後まで、協力して取り組む子ども(体)

4 今年度の教育活動の達成目標

  「 し っ か り 勉 強 ・ や さ し い 言 葉 」

アクセスマップ

校歌

高龍小学校歌

沿革史

沿革史 平成26年4月1日 高龍小学校 開校

高龍寺ヶ岳

高竜寺ヶ岳 697m(696.7m)は、兵庫県と京都府との境に位置する。日本海の眺めが雄大で、北北西に久美浜湾の小天橋を望み、空気が澄んだ日には東北東に天橋立まで見通せる。 広々とした山頂は、360度の大展望。南東に大江山(833m)が大きく、尾根続きの西には法沢山が間近に控えている。 高竜寺ヶ岳は、雲海が見事なことでも知られている。秋も深まった頃、早朝に山頂から雲海を眺め、霧が晴れるにしたがって姿を現す山々の光景は、絶景である。

無明の滝

  • 落差40メートル
  • 滝の形:分岐瀑
  • 標高240メートル

高龍寺ヶ岳から流れる川上谷川の上流にあり、標高240メートルの地点に所在する滝である。市野々集落の1キロメートル南西にあり、高龍寺ヶ岳正面へと向かう登山道沿いにある。京丹後市内にある滝の中では最長の滝。流れ落ちる水は断崖の途中で、突き出た岩々にあたり砕けて左右に分かれ、所によっては傾斜を持つ岩肌に沿って流れ、特に下側が末広がりに落ちていく滝である。水量も豊富な時には周囲の環境に溶け込み美しい。

布滝

久美浜町布袋野奥山川に懸かる落差8mの段瀑である。「のんだき」と呼ばれている。

河上麻須

河上摩須は、久美浜町須田の地を本拠地として、一帯を広く支配していた豪族である。河上摩須は、自分の孫娘の日葉酢媛が皇后となったことを喜んで、甲山の兜の頂上に伊弉冉尊を祀ったのが熊野神社の発祥だとされている。

河上摩須郎女

古事記では、丹波道主王は、河上摩須郎女をめとって、3人と娘(比婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命)と朝廷別王を生んだと記されている。3人の娘は、11代垂仁天皇の后となり、比婆須比売が皇后となったとされる。河上摩須郎女は、その名前から久美浜町の川上谷川流域を支配していた豪族の娘と推定されている。

湯舟坂2号墳

久美浜町須田にある古墳時代後期6世紀後半の横穴式石室をもつ古墳である。発掘調査の結果、200点を超える須恵器、鉄器、装身具などの副葬品が発見された。金銅双龍装環頭太刀も出土した。

金剛装双龍環頭太刀

昭和56年に湯舟坂2号墳方出土した丹後王国末期の遺物であるす。黄金に輝く全長1.2メートルの太刀で環頭には、玉をくわえた四頭の龍が向き合うという装飾が施されている。この太刀と出土した470点の土器類とともに、昭和58年に国の重要文化財に指定された。

円頓寺

円頓寺は、平安時代後期の薬師三尊像を本尊とする真言宗寺院である。 円頓寺の創建は不詳だが、麻呂子親王(用明天皇の皇子)がこの地で悪行を働く土蜘蛛を成敗し、その鎮護の為建立した7ヵ寺の1つと伝えられている。当初は寺運が隆盛し最盛期には36坊擁する大寺だったが、次第に衰退し、そのうちの1坊が円頓寺として引き継がれた。現在の本堂は寛文10年(1670)に温泉寺(兵庫県豊岡市城之崎温泉)の堂宇の1つを移築したものと伝わるもので桁行3間、梁間4間、宝形造、銅板葺き、1間向拝付、江戸時代初期に建てられた寺院本堂建築の遺構として京丹後市指定文化財に指定されている。

円頓寺の文化財
・ 木造薬師如来及両脇侍像-平安時代-国指定重要文化財
・ 熊野十二社権現懸仏-鎌倉時代-京都府指定文化財
・ 銅経筒-嘉応2年-京都府指定文化財
・ 円頓寺惣門再興勧進状-文亀元年-京都府指定文化財
・ 円頓寺本堂-寛文10年-京丹後市指定文化財
・ 円頓寺仁王門-享保7年-京丹後市指定文化財

円頓寺木造薬師如来坐像及両脇侍像

円頓寺は、国土を荒らす鬼類を退治した用明天皇の皇子が薬師如来を安置したことに始まる。そして、薬師三尊像は、右手を挙げ左手を膝上に置いて薬壷(やっこ)を執り蓮華座(れんげざ)上に結跏趺坐(けっかふざ)する薬師如来坐像を中心に、日光、月光両菩薩立像を配す三尊構成になる。像高は、中尊84.5センチメートル、日光菩薩立像137.0センチメートル、月光菩薩立像139.4センチメートルで、各寄木造、漆箔(しっぱく)の像である。造形的には、定朝様(じょうちょうよう)の典型的なもので、穏やかで優美な作風に特色があり、製作は平安時代の末期と考えられている。

売布(ひめふ)神社

垂仁天皇の時、河上摩須(川上摩須)が勧請したと伝えられている。伝承によれば久美浜町谷の足洗井戸があり、祭神が 始めて留まった地であり、野中・安養寺を経て船にて 女布に着き、小字舟處に上陸されたといわれている。この付近に 幟立ての小字があり道路そばに船石がある。舟を埋めたといわれている。

意布伎城跡 油池城跡

「御檀家帳」に「大なる城主」佐野殿と記載がある。保存状況も良好な城館である。この城は、久美浜町油池(ゆいけ)の山にある。油池は、川上谷川下流西岸に位置し、小さな谷間に十数軒の民家が密集して建つ集落である。久美浜湾の南東端、かぶと山と川を挟んで南北に向かい合う位置する。標高161メートルの山頂に城があり、城とは別の高台に城主の居所があった。城主が城に駆け上がる際に、馬の脚にボケの木の棘が刺さって死んでしまったため、付近の山からはボケの木が一掃されたと伝えられている。家臣は、城主の館のある高台より一段低い平地に暮らしていた。「京都府熊野郡誌』によれば、最後の城主は、小国若狭守。1582年、国主であった一色氏が細川氏によって滅ぼされた際、久美浜の他の城がすべて落城した後も、すでに城を失って当地に逃げ延びていた佐野城主の佐野備前守、大井城主の牧左京進とともにたてこもって抗戦し、討ち死。この最後の合戦の相手は松井康之で、意布伎城の落城を最後に、一色氏配下の久美浜の諸城はすべて失われた。落城の折に多くの死者を出したことから、後世に供養のために作られた「城山八十八体地蔵」が、城跡に続く道中に並んでいる。集落のいちばん奥に、式内社の意布伎神社が鎮座している。

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