2月14日(金)と21日(金)の2回にわたり、吉田地域講師に、長崎への修学旅行に向けた事前学習をお世話になりました。
吉田先生は、14日(金)の授業の冒頭で、事前学習に当たり多くの資料を準備してきていることについて、次のように話されました。
「原子爆弾の投下によって、多くの人の命が奪われた。用意した資料から、人々の泣き声や悲鳴、建物や遺体の燃える音、その臭いや空気を推測してほしい。」
14日(金)は、原子爆弾とはどういう兵器で、人体にどのような影響があるのかということを学び、長崎の人たちが80年前に被った痛みや苦しみを考えました。
通常の爆弾と原子爆弾の違いは、熱線、爆風が桁違いに強いということと、人体に悪影響を及ぼす放射線を放出するところです。熱線の温度は、地表で3000℃に達し、爆心から600m以内の瓦を溶かすほどでした。爆風は、爆心から1.5km以内の木造家屋を一瞬で倒壊させました。そして、核分裂で大量に放出された放射線は、人間の細胞を破壊したり、DNAを傷付けたりしました。さらに、核分裂せずに残ったウラニウムやプルトニウムは、「きのこ雲」の上昇気流に乗って上空に運ばれ、やがてちりやほこり、「黒い雨」、「黒いすす」と共に、広範囲に降り注ぎました。これらによって、原子爆弾が投下された昭和20(1945)年末までに、広島で約14万人が、長崎で約7万人もの方が亡くなりました。



被害状況を伝える写真は、大変ショッキングなのもありましたが、生徒たちは真剣に学びに向かっていました。



21日(金)は、吉田先生が持ってこられた、いわゆる「原爆瓦」に生徒たちが見入っていました。長崎の原子爆弾直下地点で採集された瓦は、高温の熱線により溶解し、表面に泡を生じ、火ぶくれなどを起こした跡が確認できます。爆心地から半径1000~1200m地点からは、こうした原爆瓦が多く採集されました。



広島及び長崎には、なぜ原子爆弾が投下されたのでしょうか?それには、次の3つの理由があったようです。
①市街地の広さが、原子爆弾の効果を確かめるのに適している。
②これまでに大きな爆撃を受けていない。
③重要な工業施設がある。
原子爆弾の威力を最大限に高め、効果的に破壊するために、長崎市中心部の常盤橋、賑橋付近の上空500mで爆発させることが決められました。
広島、次いで長崎に原子爆弾が投下され、余りに大きな被害を被り、降伏へ至りました。戦後、戦勝国は核保有国となり、核兵器の開発は止むことなく続けられました。
昭和29(1954)年3月、太平洋のビキニ環礁から160kmの海域にいた日本のマグロ漁船、第五福竜丸に、アメリカによる水素爆弾の実験から出た放射性降下物(いわゆる「死の灰」)が降り注ぎ、乗組員が被爆するという事件が起こりました。同年9月には、無線長が亡くなりました。この実験で使用された水素爆弾の威力は、1発で高性能火薬1500万t相当もありました。これは、広島・長崎2発の原子爆弾を合わせた、第2次世界大戦で使用された全火薬、300万tの実に5倍です。つまり、第2次世界大戦5回分ということなので、その威力がいかに桁外れかということです。
このことがきっかけで、世界で「核兵器をなくせ。」という声が上がり、昭和31(1956)年には、被爆者たちが「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を発足させました。以来、核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協は、令和6(2024)年ノーベル平和賞を受賞しました。核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが受賞理由となっています。
授業の後半では、福知山出身で、昭和20年に広島で被爆された芦田さんの体験談を基に、福知山・綾部の高校生が平成25(2013)年に作った紙芝居「つなぐ」を見せてくださいました。
芦田さんは、学徒勤労動員で三菱広島造船所に勤めていて、工場内で被爆しました。怪我はなく、被爆翌日に造船所から広島市内へ向かうと、本川には死体が浮かび、市内に近付くに連れて死体が増えていきました。一面焼け野原で、生き残って苦しそうな声を上げる人たちの様子に、若き日の芦田さんは、大変心を痛めました…。実際にその場で体験した人の話は、リアルで、胸を打ちました。






真っ赤に熟れたトマトを手渡す絵と「時代の転換点に立っています。」という言葉で紙芝居は終わりました。この紙芝居は、「被爆者の遺言のようなもの」だと吉田先生は仰いました。今回の授業を受けた生徒たちにとって、今この瞬間が転換点だと思いました。多くの情報により、いろいろなことを考えたことでしょう。それをこれからの生活、人生にどう生かすかが大切だと思います。
吉田先生、ありがとうございました。