菟原中の八幡神社を後にした4年一行は、西松の天満神社を訪れました。ここで、吉田先生から講師の坪倉様を紹介され、みんなで「よろしくお願いします。」とあいさつしました。
西松の天満神社の建立年代は、17世紀後半と考えられています。よくある「一間杜流造」(正面の柱の間が一つある流造)という構造形式で造られていますが、内陣及び背面には、4本の柱がある三間構造(柱の間が三つある)となっています。文化5(1808)年、昭和33(1958)年補修の記録から、数度の補修により、本来三間杜であったものが一間杜に改造されたと推測されています。



「飛梅宮」と書かれた扁額が掲げられた鳥居の前で一礼して境内に入ると、左側に手水舎がありました。参拝者はここで、手や口を水で濯いでからお参りするのだと教えていただきました。
ところで、なぜ「飛梅宮」という扁額が掲げられているのでしょう?気になったので調べてみました。天満神社の祭神は、菅原道真(承和12(845)年~延喜3(903)年)です。平安時代の貴族にして学者であり、政治家でした。宇多天皇、醍醐天皇に仕え、醍醐朝では、国の最高機関・太政官長官である右大臣にまで上り詰めました。しかし、昌泰4(901)年、左大臣である藤原時平の虚偽の訴えにより、福岡の大宰府へ左遷され、やがて現地で亡くなりました。ところが、延喜9年(909)年に藤原時平が病死、延長8(930)年には、かつて大宰府で菅原道真を監視していたことのある藤原清貫が落雷により死去しました。道真と関連のある人物が、病気や事故といった「自然でない死に方」をし、天皇の屋敷への落雷で多くの死傷者が出たので、人々は道真の怨霊の仕業だとして、道真を天満大自在天神と神格化して神社に祀りました。これが、北野天満宮です。後に信仰の対象となり、学業や豊穣の神「天神さん」と親しまれるようになり、各地に「天神さん」が建てられます。
長い説明で申し訳ありません。これからが「飛梅宮」の話になります。菅原道真が大宰府に左遷される時、大切にしていた梅の木に、「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」(春に吹く)東の風が吹いたならば、その香りを(私の所まで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れるな。)と和歌を詠んで去ったところ、その梅の木が道真を慕って大宰府にまで飛んで行き、そこで生え匂ったという故事、もしくは、その故事にちなんだ、天原山安楽寺にあった梅の木のことを「飛梅」と言うのだそうです。飛梅は、太宰府天満宮が造営されると本殿前に移植されたと言われています。後代に、道真を祭神とする神社に株分けされたものが各地に現存しています。ですから、菅原道真を祀る飛梅がある神社は、おしなべて「飛梅宮」と言えるのではないでしょうか?西松の天満神社にも梅の木があるとのことです!



参道や本殿の前には、狛犬が鎮座していることが多くあります。狛犬は、邪気を祓い、神前守護の意味をもつとされています。「犬」と付いていますが、獅子と獅子形の架空のものとされ、起源は、エジプトやインドと言われています。一説には、シルクロードを通り、中国から朝鮮半島の高麗を経て日本に伝わったため、「高麗犬」と呼ばれるようになったのだそうです。ここまでは、一般的な狛犬の話。
吉田地域講師より、天満神社の狛犬について説明を受けました。石英を多く含んだ石でできており、所々白く見えます。石英の比重は、約2.65から3.0程度です。これは、石英が主に二酸化ケイ素から構成されているためです。一般的な岩石の比重と比較すると、石英は、比較的重い鉱物なのです。天満神社の狛犬は、小柄な像でありながら、とても重いのだと坪倉さんが仰っていましたが、それには石英が関係していたのですね。
天満神社の狛犬も、他社の像と同様、向かって右側が口を開いた阿像で、左側が口を閉じた吽像です。頭に角があることや、巻き毛のようなたてがみが特徴です。目は、「アーモンド型」で大きく、目尻が上がっています。怒り顔ですが、何となく愛らしい顔をしています。阿像の台座には、「丹波天田郡細見松村」という文字が彫られていました。
西松の奥に向かって歩いて行くと峠があり、その向こうは、兵庫県丹波市市島町に通じています。現在は、草が生い茂って獣道のようになっているそうですが、昔は、この峠を人が行き来していたということです。坪倉さんも歩いたことがあるそうです。市島の人と西松の人が山頂で結婚式を挙げたという話や、市島町多利にある神池寺にある狛犬にも角があるという話からも、人や物の交流が盛んだったことをうかがえました。









本殿の前には、「奉寄進御神前」(御神前に寄進奉る)と彫られた元禄12(1699)年の石灯籠がありました。宝永5(1708)年の石灯寵もあるそうですが、見落としました。残念です。



そして、境内には、樹齢約400年と言われる神木杉が、天空に向かってそびえていました。せっかくなので、幹の太さを調べてみようということになりました。本日出席の6人で、幹を囲んで手をつないでみると、ギリギリ手が届きました。貴重な体験をさせていただきました。






児童代表が、「いろいろなことを教えてくださり、ありがとうございました。」とお礼を言い、全員でも「ありがとうございました。」と感謝を伝えました。坪倉様は、「大きくなったら、是非お参りに来てください。」「お家に帰って、こんな所に行ったとご家族に教えてください。」と仰いました。お忙しい中ありがとうございました。


この日最後に訪れたのは、千束の三和郷土資料保管倉庫でした。こ市内随一の質・量を誇る資料(史料)が保管されています。福知山市文化スポーツ振興課の岡本様、三好様に案内・解説をお世話になりました。みんなで「よろしくお願いします。」とあいさつをして入館しました。


最初に、昔の冷蔵庫を見せていただきました。子どもたちは、初め「昔の金庫?」と言っていましたが、氷を入れて使う冷蔵庫でした。昔は、電気で冷やすということが技術的に不可能だったと知って、驚く子どもたちでした。
明治に入ると、日本でも人工氷が作れるようになり、明治後半には家庭用の氷冷蔵庫が普及したのでした。この冷蔵庫には、上下2枚の扉があり、上段に氷、下段に食べ物を入れ、氷の冷気で食べ物を冷やしていました。氷も、氷屋さんで買うもので、氷がなくなったら、また買いに行かないといけなかったのです。



左に目をやると、隅の方に黒い人力車が置かれてました。大正期に製造され、初代福知山市長・高木半兵衛が愛用していた人力車です。登庁する際などに使われていたようで、和装・下駄履きで乗り込む姿を、高木市長の孫に当たる方がよくご覧になっていたとのことです。その方から、平成3(1991)年に市へ寄贈された人力車だそうです。



弓矢がある!という声が上がり、その方向を見ると、昔の弓がありました。持ってみると、大きさの割に軽いということが分かりました。


その奥には、腕用消火ポンプと呼ばれる手動式のポンプやホース、水をかける管鎗とノズル、それに、ポンプを載せて移動させるための台車を見せていただきました。腕用消火ポンプは、明治8(1875)年にフランスから9台購入され、東京の消防に配置したのが最初でした。福知山各村で使われ始めたのは、明治の末から大正の初め頃だったようです。火災発生を聞けば、大勢で台車を押して現場へ向かいました。現場に到着すると、ポンプを降ろし、吸水ホース、放水ホース、管鎗、ノズルをセットし、4人がかりで把手をシーソーのように上げ下げして放水したのでした。
しかし、腕用ポンプをもってしても、燃えさかる火を消すのは難しかったようです。延焼を防ぐためには、江戸時代の火消しが行ったように、火元の周りの建物を壊していったということです。
ポンプの奥には、養蚕に関する道具がありました。蚕を育てる蚕箔を乗せ、桑の葉を与えるための給桑台と思われます。






時代劇でお馴染みの駕籠を見せていただきました。この収蔵庫の駕籠は、明治初期に作られた婚礼用のものです。駕籠の中には、筵が敷かれていて、背もたれや肘置き、小さな棚があるという細かな造形に目が行きました。人を乗せた駕籠をたった二人で担ぐのかと、駕籠かきの苦労に共感していた子どもたちでした。



奥の小部屋に入ると、所狭しと昔の道具類が置かれていました。子どもたちは、興味津々で見学し、「ランタンや!」「昔のヘルメットや!」という声を上げていました。第47代内閣総理大臣・芦田均の在職25年の功労への表彰状を読もうとがんばっている児童もいました。






ダイヤル式の黒電話を触らせていただき、何人もの児童が電話をかける体験をすることができました。ダイヤル式電話は、ダイヤルを回すと、数字に応じた回数のパルス信号が電話局に送られ、相手の回線と接続されて通話することができました。この方式は、何と電源を必要としないので、電話線の電力だけで動作することから、停電時でも使用可能でした。受話器には、マイクとスピーカーが内蔵されていて、声を電気信号に変換して送受信しました。 1930年代から1980年代にかけての主流電話機でした。
子どもたちは、ダイヤルを回してストッパーに指を当てるという体験が面白かったようで、繰り返し触っていました。昔は、各家庭で見られた電話のかけ方ですが、改めて時代の流れを感じました。



ほかにもいろいろと貴重なものがたくさん見ることができ、触れさせていただくこともできました。岡本様、三好様、ありがとうございました。


お世話になった皆様、大変良い学習をすることができました。ありがとうございました。