廣雲寺を後にした6年一行は、芦渕梨の木にある珪石採掘場跡に着きました。ここでは、地域の西岡様が講師をしてくださいました。国道9号線から採掘場跡へは、徒歩で山道を向かいます。何と、事前に西岡さんが山道の木の枝や草などを刈り取ってくださっていたということです。ありがとうございました。



芦渕では、昭和12(1937)年頃から、レンガの原料になる珪石を採掘するようになりました。珪石採掘事業は、大正期から兵庫県氷上郡で盛んでしたが、昭和3(1928)年秋に、芦渕でも良質の珪石があることが分かり、翌年1月に氷上郡の業者が経営を始めました。その後一時事業中止となりますが、準戦時下に入り再び営業を開始しました。昭和14(1939)年の芦渕小字大平谷では、6か所で計21人、草山小字小路では、2か所で計7人が働いており、一日約40tを採掘していたとのことです。
採掘方法は、坑道を掘らずに地表から直接採掘する露天掘りで行われ、山からケーブルで運ばれた珪石が写真の施設で保管されていたそうです。珪石は、トラックで搬出され、福岡や北海道、満州の鞍山にまで運ばれ、鉄製用耐火材料に利用されていました。



戦争により、村の若い人たちが戦場へ行ってしまうと、労働力を補うために朝鮮の人たちがここで働いていました。昭和16(1941)年には、珪石山の麓の原野を芦渕区から借用し、住宅を建てて朝鮮の人を住まわせていたという記録が残っています。
戦後も珪石の採掘は続けられ、昭和40(1965)年頃までは、山から珪石を載せたケーブルが降りてきていたそうですが、年々減少し、朝鮮の人も少なくなっていき、北朝鮮へ帰った方もおられたようです。



最後に訪れたのは、群是萩原分工場跡です。生糸を作っていたのですが、戦時中は、軍服やパラシュートなどを作る軍需工場として稼働していました。明治期からたくさんの女工さんが住み込みで働いておられたので、辺りにはたくさんの商店が建ち並んでいました。西岡さんが、「あの家が昔は本屋だった。」「あそこに関西電力の営業所があった。」と指さしながら教えてくださいました。工場内で映画会が催されたりもしていたそうです。
今は、工場跡を示す碑が建てられているだけで、工場の面影はありませんが、多いときには500人以上が働いておられたとのことで、この辺りは、大変な賑わいを呈していました。芦渕と福知山の人々の交流が行われていたのだと吉田先生が説明されました。



雨の中、戦争と三和について多くの準備をしていただくとともに、大変丁寧に教えてくださいました。小林様、西岡様、吉田様、ありがとうございました。