2月25日(水)に、6年生が三和の戦中・戦後のゆかりの地を巡りました。「アジア・太平洋戦争末期における三和の学童疎開、工場疎開の状況を知る。」というのが、今回の学習のねらいでした。
学習のコースは、①大原神社絵馬殿→②リバース647かわい承学校「ちっちゃな平和ミュージアム」→③廣雲寺→④ケイ石採掘場跡→⑤郡是萩原分工場跡でした。
初めに大原神社へ行き、絵馬殿で地域の小林様から、戦時中の三和の様子についてお聞きしました。「五つの話をします。」と前置きされて、次のように話されました。
「初めの一つ。隣の家に遊びに行っていた時、その家のおじいちゃんが、『戦争が始まったらしい。日本が敵の船をたくさん沈めたらしい。日本はやっぱり強いなあ。』と言われました。私は、大きな声で『万歳、万歳。』と言いながら庭を走り回りました。これが1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まった12月8日でした。私が2年生の時でした。」
「その二つ。召集令状が届いて戦争に行かれる時は、各集落ごとに出征兵士を送る会が開かれていたようです。大原神社の広場に集まり、区長さんの激励のあいさつ、それに応えて、出征される兵隊さんの強い決意のこもった『命を捧げて国を守ります!』のあいさつ。『国のためにがんばってください!』『大原の誇りです!』との声が飛びます。兵隊さんがあいさつをしている時、結婚して1か月ほどの兵隊さんの奥さんが列から離れ、手洗い場の所へ行き、顔を伏せて泣いていました。私は、『何をしているんだ、戦争への見送りなのに。』と思っていましたが、今思うと、本当に悲しいお別れだったのだと思います。」
この時すでに子どもたちは、小林さんのお話に引き込まれていました。そんな子どもたちに、小林さんは続けます。
「その三つ。大原神社では、ドングリがたくさん採れました。日曜日には、今の大原農村公園の下の川に入って、バケツ一杯のドングリを拾い、戦争のために油作りをしました。お腹が減っていたけれど、『欲しがりません、勝つまでは』と耐えていました。将来、自分も戦争に行って戦おうと思っていました。」
「その四つ。5年生の頃には、上空を敵の飛行機、B29が飛ぶようになりました。それでも日本は、竹槍を持って戦おうとしていました。警戒警報が発令されると、防空頭巾を被って避難しました。台頭の近くで、B29の音が聞こえてきました。上級生が『伏せろ!』と大きな声。みんな慌てて側溝に目と耳を両手で押さえて伏せました。体の震えが止まらず、とても怖かったです。そんなことが何回も続き、段々と震えることはなくなり、『伏せろ!』と言われても次第に伏せなくなってしまいました。」
「終わりの一つ。6年生の時の8月15日、緊急の全校登校日となりました。体育館に整列。教頭先生がこれまでの姿とは全く違った様子。ゆっくり静かに下を向いたままでした。ポケットからハンカチを出して、大きな声で泣かれました。そうして、しばらくしてから、小さい声で『日本が負けた。』と言われました。当時は、『戦争と止めよう。』『戦争はおかしい。』などと言ったら、大変叱られました。『戦争には絶対に負けない』と思っていたので、まさかという思いでした。」
「『命を捧げて国を守ります!』と言っていましたが、今となっては、それはおかしいと思います。国民がいなくなったら、国自体がなくなることになります。だから、命が一番大事なのです。」
開戦から終戦までの出来事について、6年生に分かるように話してくださいました。小林様、ありがとうございました。



大原神社の本殿前の狛犬は、戦時中に金属として拠出されるところでした。ですから、切断された線が、今も痛々しく残っています。そこ狛犬は、鉄ではなく青銅製であったので、修復され、元の場所に戻ることができたのです。また、狛犬の足下には、多くの寄付によって造られたものであることが記されていました。子どもたちは、興味深く狛犬を観察していました。



次に、リバース647かわい承学校の「ちっちゃな平和ミュージアム」へ行き、吉田地域講師の話を聞きました。福知山には、海軍福知山航空基地の遺構があることを教えていただきました。日新地域公民館西駐車場には、石原飛行場にあった掩体壕の一部が移転されています。掩体壕とは、飛行機を爆撃などから守るための格納庫です。しかし、日新地域公民館にある掩体壕は、分厚いコンクリートで造られていますが、飛行機を格納できるほどの大きさはありません。ですから、飛行訓練をする搭乗員や飛行場建設工事をしている人たちが、敵機から身を守るために造られたものであるとされています。
石原、戸田、土地区で、現在広域農道となっている道路とその周辺の農地は、戦時中、幅50m、長さ1,700mの滑走路でした。滑走路につながる誘導路には、掩体壕が30基ほど造られていました。これらの掩体壕から滑走路まで、誘導路の上を人力で飛行機を運んでいたとのことです。近くの山には、飛行場を守るための高射砲が設置されていたといいますから、農道周辺は、現在と大きく異なる姿をしていました。
続いて、芦渕の廣雲寺へ行きました。アジア・太平洋戦争末期、連合軍の空襲が行われるようになると、都市部の児童生徒の疎開が始まりました。昭和19(1944)年9月から、廣雲寺には、大阪から来た学童疎開の5・6年女子が寝泊まりしていました。
菩提樹の下には、平成11(1999)年5月に贈られた「念々像」があります。これは、廣雲寺に学童疎開していた方が戦後50年を機にこの地を訪れ、何か記念になるものを贈りたいと申し出て、造られた像だということでした。その方は、幼い頃の記憶を頼りに「天田郡の寺」を探しておられました。しかし、一口に天田郡といっても、福知山市、夜久野町、三和町と大変広い地域だったので、なかなか廣雲寺には辿り着けなかったそうです。
念々像の少女は、防空頭巾を被り、もんぺ、わら草履を履いてさつまいもを抱える姿をしています。戦時中にアメリカ軍が使用した焼夷弾から身を守るため、髪を束ね、水で濡らした頭巾で頭を覆い、動きやすいもんぺを履いているもらいました。もんぺしか履いてはいけなかったということです。
見学の最後に、お寺の石段に案内されました。戦時中、夕暮れ時になると皆石段に座り、家族が面会に来てくれないかと思いながら大阪の方を眺めていたといいます。しかし、当時は大阪大空襲が何度も行われていた時期なので、大阪の空が空襲の炎で赤く染められていたり、煙が漂ってきたりして、不安に苛まれることがあったそうです。
6年生たちは、当時の疎開児童の悲しい思いに共感しているようでした。
一行は、この後、芦渕のケイ石採掘場跡を訪ねますが、それについては、後日お知らせします。