親・教師の不安と焦り
 親にとっては何にも代え難い最も大切な存在である我が子の「いのち」が脅かされたり、もしかすると災難に遭うかもしれないなどと思うと、いてもたってもいられなくなり、慌てふためくものです。

 かけがえのないわが子の存在を脅かされたり失ったりするかもしれないと思ったときに感じる不安と苦痛は大変なものであろうと想像できます。
 さらに、親がしてきた苦労は我が子にはさせたくない、なんとか一度しかない自分の人生を自分らしい生き方で幸福に生きてほしいと願っています。
 子どもを襲う不幸は取り払い、できればいい仕事に就かせて苦労せずに生きていってほしい。子を持つ親であれば必ずと言っていいほど、きっとそう思うはずです。


 しかしながら、「我が子のためなら」と称する、そのような親の思いこみが、姿を変えて「子どもへの期待と願い」にすり替わっているということには、私たちは普段あまり気づいていません。
 我が子が三歳くらいになって保育園にでも通うようになると、口では言わなくてもこころのどこかで知らず知らずのうちに親は理想の我が子像に追い立ててしまっていることがあります。
 
 例えば、ちょっと極端な言い方をすれば、「朝は親に起こされなくても一人で起床し、家族のみんなにさわやかに大きな声でおはようとあいさつし、生野菜も魚も肉も、好ききらいなくたくさん食べ、自分で通学カバンと安全帽と名札の準備をして元気に家を出て、保育園に着いたら先生や友達に、にっこり笑顔であいさつをして、友達と仲良く思いっきり元気に遊んで、夜は毎日言われなくても奥までしっかり歯磨きしてお風呂でしっかり身体を洗って9時にはぐっすり眠りましょう・・・。」といったことを暗に子どもに期待しているのではないでしょうか。

 我が子のためならという思いが、姿を変え、子どもへの期待と願いにすり替わっているわけです。そんな聖人のような子どもになど育つはずはない、自分だってそれほど何もかもよくできた方ではないし、我が子ができなくても仕方がないと頭では分かっていながらも、それをあらゆる生活の場面で我が子に当てはめているのでしょう。

 我が子の幸せを願うあまり、様々な高い能力の獲得を期待し、しかもそれを「早く」として止まないわけです。本来、子どもを授かったときは、我が子がその子らしく生き生きとして自分の人生を自分らしくと願っていたはずであったのに、その我が子が他の子どもよりもペースが遅かったり、モジモジして引っ込み思案であったりすると、我が子を思うあまり、親はそれが自分のことのように心配でたまらなくなってしまうものです。

 こういうとき、親の「期待や願い」は、さらに「不安と焦り」にすり替わってしまいます。子どもが必要としていないのに、ついつい口や手を出したり、時には背中を押したり、叱ったりすることにもなってしまいます。このままでは我が子は将来、幸せな人生を送れないのではないか、みんなとうまく一緒にやってはいけないんじゃないかとでもいうような不安に襲われてしまうからなのでしょう。


 「自分がそれほどできた方ではない」「自分はうまく育ててもらえたと思えない」という劣等感がベースとして親自身の中にある場合、それはさらに強いエネルギーをもつもので、これが子どもへの期待となって姿を変えた場合、子どもは走り回らせられることになります。塾や習い事に、放課後、走り回る子どもたちをみていると、その小さい背中に、すごく「大きい重たい荷物」(Fig.1)を背負い込んでいるように見えてしまいます。
 さらに、これが経済的な余裕、核家族、少子化、頼りにならない父親、・・・などと結びついた場合には、莫大なエネルギーとなって子どもの小さな背中にのしかかるのではないでしょうか。


 教師の場合も同じことが言えるでしょう。「学校に着いたら、すぐにグランドを元気よくさわやかに走ろう。そしてすぐに教室に戻って、汗をしっかり拭いたら、すぐに朝勉強に取りかかろう。先生が教室に来たら、さわやかに大きな声であいさつして、さっと学習をはじめよう。どの教科にも興味をもって、一生懸命に頑張ろう。休み時間は児童会の当番があるからすぐに行こう、そしてチャイムに遅れないようにすぐに教室に戻ろう・・・」。熱心な先生であれば、おそらく心のどこかでこんな「理想の子ども」を追いかけながら子どもたちに期待と願いのメッセージを送り続けてきたことでしょう。自分の仕事に忠実で熱心であればあるほど、強烈なメッセージとして子どもたちのこころに届くことでしょう。
親や教師は、子どもが何歳になったとして     
も、この幻のような理想を果たすことを子どもに要求してしまっているのかもしれません。このことは親も教師も子どものために善かれとしてやっているわけですから、一概に否定されるものではないでしょうが、その親や教師の期待や願いによって子どもの心理的負担が過大になって疲れ果ててしまう子どももいるということを肝に銘じておかなければならないでしょう。
Fig.1 「大きい重たい荷物」
 Fig.1に示すとおり、「背のびしているよい子」が示す挫折は、「子どものためならと称する周りの大人の思い込みが姿を変えて子どもへの期待と願いとなったもの」に押しつぶされてしまった状態であると考えられます。 
 敏感で素直で、心優しい気配りのできる子どもであればあるほど、それに押しつぶされやすいことは言うまでもありません。不登校になっても親や教師から登校や学習することを暗に催促されたりします。学校には行かなくてよい、学習はしなくてよいと思っている親や教師はいないわけですから、そうなると余計に子どもは、敏感に「親や教師の期待に添えない私はダメな子」と否定的に受け取ってしまい、自分の失敗や挫折感はもう口に出せなくなってしまいます。

 「よい子」やその親に接する教師は、少なくとも、このことをきちんと自分の中にとらえておくことが大原則でしょう。さらに、その子どもへの期待や願い、あるいは不安と焦りが、教師としての自分のこころのどこから生まれてきているのかを自分なりに考えることがとても重要です。

 子どもに対する要求や指示は、自分の中にある期待や願いが言語化されて現れたものですが、それが自分のどんな体験から発せられているのか、自分のどのような感情から発せられているのかについて「こころを巡らせる」ということが大事です。多くの場合、それは自身の何らかの心理的要因から来ていると思われますが、その「こころを巡らせる」ことを抜きにして、その子どもと接することは、子どもにとってマイナスに働くことが多いでしょう。そこには治療的な効果は全くないのだということも知っておくべきだと思われます。
 
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