(2) 「背のびしているよい子」への関わり
 ア あるがままに
  二分法的な世界から中庸の世界へ
 「背のびしているよい子」の場合、まず「ちゃんとできなくてもいい」というような体験を子どもと一緒につくること、そしてその体験を子どもと一緒に繰り返し積み上げることが重要だと思われます。

 これは「いい加減にしておいてもいい」ということを子どもに「教える」ということではありません。「きちんとしないとダメだ」というような、やや完全主義的な傾向を感じるその子どもと一緒に、その過程において自分の楽しみをじっくりと味わう体験をつくることが必要だと考えています。

 これは言うなれば、特急列車で目的地まで真っ直ぐに急いでビューンと行ってしまうのでなく、各駅停車で列車の窓から見える風景を楽しみながら、その土地土地の空気を肌で吸い込みながら、そして各駅で入れ替わる乗客の姿に眼をやり、時には会話を楽しみながら目的地に着くとでもいうような体験です(Fig.2)。

 「できた」「できない」とか「勝つ」「負ける」とか「行く」「行かない」というように二分法による結果としての両極の二つの世界を特急列車で行き来するのでなく、その二つの世界の間にある中庸の世界にゆったりと浸かるとでもいうような体験です。
 他の喩えで言うなら、例えばスイッチには通常、ONとOFFの二つしかありませんが、ダウンライトのように、ほんの少し明るくしたり、ちょっと照度を落とすというような中間の領域にあたるところ、すなわち「ほどほどの」とか「適当な」ところでの体験です。

 例えば宿題であれば、10個の練習問題のうち、10個とも全部できたから「できた」のではなく、2つでも3つでも「できた」は「できた」ということです。あるいはそれが一つのうちの半分であっても「できた」には違いありません。 これは「いい加減にしておく」という感じとは全く違う感覚です。言葉ではうまく言い表すことができない何かそういう微妙な中庸の世界のもつ感覚を共にゆったりと味わいたいのです。
 子どもによって、例えば水・砂遊びをする、テレビゲームをする、トランプ遊びをする、卓球をするなど、遊びや会話のなかでそういう中庸の世界を味わう体験をつくり、繰り返し何度も積み上げることで確実に子どもは変化してきます。不登校の子どもの場合、すぐには登校できるようにならないとしても、「これでも私はOKなんだ」と感じられるようになってきま
す。
なぜこういった体験の繰り返しが「背のびしているよい子」に必要であるのか、次のような理由であると考えています。
 「よい子」は、周囲の大人や仲間の顔色にこころを砕きながら「〜ならぬ」「〜べきだ」という理想を追求し、自分の責任をきっちりと果たし、「私は〜したい」というような自由奔放な天真爛漫さは犠牲にして、自分の感情を抑えて周囲に迎合していく子どもたちです。周囲の大人の期待や願いに添うものは「OK」、添わないものは「ダメ」なのだから、その間に中庸の世界は存在しません。
Fig.2 「中庸の世界」
 また、自分の感情を抑えて周囲に迎合するのですから、「ほどほどの」とか「適当な」という世界は、他者との関係によって他者がつくるもの、または既にできあがってしまっていて、自分が自らそれをつくって、「中庸の世界に自分で自分の身を投じるということができない」(阜・真下 *1)わけです。

 従って「背のびしているよい子」は、「できた」と「できない」、「ON」と「OFF」との中間の領域をうまくもち合わせないので、自分が今、ここでこれができないと分かると、ひどく落ち込んでしまう結果になります。「よい子」の不登校のきっかけには、友達との人間関係のトラブル、言葉による友達のからかい、先生のちょっとした叱責によるショックなど、周囲の人との関係における挫折体験であることが多く見られます。
 
これは、その子どもが「ON」と「OFF」の間にある世界をほとんどもち合わせないので、ONでだめだったときにはOFFまで一気にドーンと落ち込むので、その挫折感は人一倍になってしまいます。人一倍責任感も強いので、それでも何とかしてONにしたい、そしてそのONにしたいという思いが強いだけに、ONにできないという現実を突きつけられたとき、他の子どもよりも余計に疲れ果ててしまうことになります。「よい子」の不登校の子どもの場合、「純真に求め過ぎた期待と願いに添う理想としての自分のあるべき姿と、そうはならない自分の現実のギャップに直面して苦しみ、そしてその苦しみ方さえもよくわからない」(阜・真下 *1)から、教室に入れない、学校に行けない状態であるとも考えられます。
 
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