盲唖院の開業
 京都には、盲聾教育の発祥と盲唖院の開業、創建の三つの段階を記念する石碑があります。
 まず一つは、古河太四郎が教師として勤務し、上京第19区の区長熊谷伝兵衛と協力して、わが国最初の盲聾教育を始めた「いん唖教場」が置かれた待賢校(上京第17番小学校)があった、猪熊通下立売下る大黒町に、「日本盲唖教育発祥之地」という石碑が建てられています。
 つぎに、本校の開校記念の日となっている1878(明治11)年5月24日に日本最初の盲唖院が開業した場所は、御池東洞院上る船屋町で、ここに「日本最初盲唖院開学之地」と彫られた石碑が建っています。


2 「日本最初盲唖院創建之地」


 この石碑が三番目の石碑です。京都府庁前の、京都第二赤十字病院の南端に建てられています。先に開業した船屋町の校舎は大丸(呉服商)の建物であったため、翌年の1879(明治12)年9月に本校舎として、この場所に移転しました。その後、現在の花ノ坊校地に移転する1937(昭和12)年まで存続しました。


3 「大坂日報」記事(写真パネル)


 明治11年5月26日付け「大坂日報」が伝える盲唖院開業の様子は次のようでした。(要旨)
 当日は午前9時に開業式を始める予定であったが、8時頃より雨が降り始め、盲唖生が休憩所より会場まで移動するのは困るだろうと、10時50分頃まで開式が見送られた。しかし、雨は止む様子もなく、参観の府民は増える一方で、また、日本で初めての開院式典を延期することはできない。11時すぎ、やむなく着座が告げられ、生徒、父兄、来賓の神官僧侶、上、下京区総区長、各区戸長が入場し、一同静まり、槙村正直(まきむら まさなお)知事以下来臨し、式は始まった。
 まず、盲生徒半井緑(なからい みどり)(10歳)が小学読本巻1を講じ、「私の如き盲人も怠り無く勉強すれば云々」と演説すると、着座している者で涙を流さない者はなく、槙村知事も手拭で顔を拭った。
・・・この開業は実にわが国の美事というべし。

 *3000人の府民が駆けつけたといわれています。

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