古河太四郎(ふるかわ たしろう)

1.「古河太四郎」(写真)


 古河は1845(弘化2)年、上京智恵光院にあった日本一大きい寺子屋「白景堂」(寺子600人)に生まれました。
 幼いころより、軍学・天文学とともに儒教や和算などを修業し、明治2年に、全国にさきがけて設立された市中64小学校のなかの一つである待賢校(たいけんこう)の教師となりました。
 翌年、釈迦谷新池を開発する農民に協力して、はからずも2年間刑に服さねばなりませんでしたが、獄中、以前に見聞きした「盲人あんま」の惨状や、獄窓から目撃した、いじめられる聾児の様子から盲聾教育を決意しました。
 明治5年に出獄した古河は、翌年、再び待賢校に復帰します。明治7年、待賢校を管理する上京第19区長であった熊谷伝兵衛(くまがい でんべえ)の協力を得て、熊谷の隣家にいた聾姉弟の指導を始め、明治10年には、この「いん唖教場」に盲児を加え著しい成果をあげました。
 1878(明治11)年、日本初の盲唖院の初代院長となりました。

 *古河は、明治22年に京都府盲唖院長を退職したのち、1900(明治33)年に私立大阪盲唖院長として復帰しています。以後、自らの名を「古川」と署名している文章が多く見られます。また、戸籍謄本にも「古川」との記述がみられ、さまざまな観点からその表記について研究がされています。

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