(1) 「反抗する子」からのサイン
 攻撃性と反抗
 「反抗」の意味するものについて少し臨床心理学的に考えてみたいと思います。

 少年の殺人事件や凶悪な事件があちこちで起こり、私たち大人の心を震撼させています。

 子どもが、これほどまでに残虐になれるのだろうかという、根源的な不安をかきたてるような事件が相次いで起こっています。


 シグモンド・フロイトはかつて第一次世界大戦で最愛の息子を亡くしたとき、人には「生の本能」だけでなく、周りのものを破壊し、全てを無機物にしてしまう「死の本能」があることを明らかにしました。
 これらの事件を前にすると、生来的に人には、もともと極めて残虐な攻撃性が備わっているのだろうかとも思えてきます。

 確かに人の歴史は、一方では平和を希求する人権獲得の歴史でもあったわけですが、他方では戦争、殺人、虐待、略奪の歴史でもあったわけです。
 人が本来的にもつ「攻撃性」は、ある意味ではフロイトの言う「死の本能」に支配されていると言えるのかもしれません。だから人誰にでも備わっている、その「攻撃性」が前に出てきたりすると、やはりその人には否定的な負のイメージがつきまとってしまうことは当然なのかもしれません。

 
 フロイトは、「無意識」を発見し、人の「こころ」は「本能(ido)」「自我(ego)」「超自我(super ego)」の三つの構造から成り立つと考えたことはつとに有名です。
 本能(ido)は、生物学的、本能的なもので、「〜したい」「〜が欲しい」という快感原則に従って考え、行動するよう「こころ」に働きかける領域。
 自我(ego)は、外界とidoを仲介する機能で、理性や分別によって現実原則に従って考え、行動するよう「こころ」に働きかける領域。
 そして超自我(super ego)は、自我を監視する役割で、幼少期の両親のしつけが内在化されてできた領域であり、「〜してはならない」「〜であれ」「〜しなくてはならぬ」など、道徳的な良心、罪悪感、理想の追求などに従って考え行動するよう「こころ」に働きかける領域であるというものです。

 この三構造のエネルギーのバランスが維持されていると、人は心の平衡も保てていますが、どれかの領域の力が強くなると、パーソナリティの偏りや「こころ」のバランスを崩して、心理的な問題や不適応行動が生じる原因となるとフロイトは考えたのです。

 反抗に人を駆り立てる「攻撃性」は、この三つの構造のうち本能(ido)に属しており、この領域が強すぎると、衝動的であったり、感情的であったりなど幼児的なパーソナリティが形成されやすいと言えるでしょう。

 攻撃性が無意識の中に抑圧され、そのエネルギーが自分の内界に向いた場合、自己否定感が強まり、自尊感情も低下し、神経症的な不登校、リストカットなどの自傷行為、心身症などの非社会的問題が生じることがあり、一方、攻撃性が外界の対象に向けられると、親や社会への反抗としての家庭内暴力や校内暴力、非行などの反社会的行動に発展する可能性があると言えるでしょう。
 
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