報土寺(本堂)

外観(修理前)

本堂ほんどう【重文】

報土寺について

 報土寺は、知恩院(ちおんいん)を本山とする浄土宗の寺院です。千本通り西側の市街地に位置しており、周囲を住宅などで囲まれています。

 沿革は詳らかではありませんが、室町時代の永禄(えいろく)2年(1559)に天台宗より浄土宗寺院に改められたとされています。元は京都御所の北、相国寺(しょうこくじ)惣門の南東に寺地がありましたが、寛文(かんぶん)3年(1663)頃に、替地により現在地に移りました。

 戦国時代の武将、黒田孝高(よしたか)(官兵衛)の妻、(てる)の菩提寺となっており、境内には墓所があります。また、かつて付近には遊郭があり、遊女たちの亡骸(なきがら)が投げ込まれたと伝わっています。

本堂のほか、表門、阿弥陀如来像が重要文化財に指定されています。

本堂について

 浄土宗本堂の典型的な形式のひとつで、この系統のものとしては古く、つくりや空間構成が優れているということから、重要文化財に指定されています。

 本堂には、寛永6年(1629)建立の棟札(むなふだ)が残っており、この時旧地に建てられたものが、寺地の移転にともなって移築されたとみられています。

 棟札には多くの一般民衆の名が記されており、大衆の信仰心が建立の大きな力となっていたことが窺われます。

 正面9間(約17.7メートル)、奥行き8間(約18.5メートル)の外見で、正面に幅3間の向拝(こうはい)が取り付いています。屋根は本瓦葺(ほんがわらぶ)きです。軒廻りは簡素で、垂木(たるき)は一重、柱の上には組物を用いず、舟肘木(ふなひじき)が載って軒桁(のきげた)を受けています。

 内部は、中央部後方を内陣(ないじん)として、須弥壇(しゅみだん)及び来迎壁(らいごうへき)を構え、本尊を安置しています。内陣の両脇を前後に区切って、位牌の間及び脇の間とし、内陣及び脇の間の間口に面する南側を外陣(げじん)としています。これらを落縁(おちえん)で一周囲んで、縁先に柱を建てて軒を支えています。

 全体として内部の部屋境の仕切りは緩やかで、堂内全体が一体的に感じられる空間となっています。柱など木部材は太く、堂々とした印象を加えています。全般に木部は素木(しらき)ですが、須弥壇と来迎壁部分には、象徴的に華やかな色彩を施しています。

 建物には様々な改変が加えられて現在に至っています。例えば、江戸時代の間に、来迎壁の位置を動かして須弥壇を広げたとみられます。外陣との境には格子の蔀戸(しとみど)が吊られていましたが、現在は取り外されています。正面の外観にも改変があり、明障子(あかりしょうじ)が並んでいる部分は、もと蔀戸でした。両端の火灯窓(か とう まど)は、近代に東西落縁の南端部を部屋に改造した際につくられたものです。

軒の構成
内観(修理前)
来迎壁の移動した痕跡

修理の内容

 屋根は波打ったように歪んでおり、使われていた瓦そのものも、多くが耐用限度を大きく超えていて、随所に雨漏りが生じていました。屋根の歪みは、それを支える木造の小屋組(こやぐみ)の歪みによるもので、瓦を全て降ろした後、修理は小屋組に及ぶ見込みです。さらに、建物全体にわたって、木部や壁の傷んだ部分を修理します。
 瓦を降ろした後、現在は、その下の木部を取り外している状態で、並行して耐震診断を進めています。
 修理範囲による制約はありますが、本修理に合わせて、建物の辿ってきた修理・改変の履歴や、移築の様子のわかる痕跡などを、できる限り明らかにしたいと考えています。小屋組・屋根下地の組立を行い、本瓦葺に着手します。内部は、床組・天井の組立等を進めます。

瓦降ろしを終えた状況
屋根の波打った状況

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