恭仁宮跡の発掘調査

恭仁宮(くにきゅう)って?

 恭仁宮跡は、京都府の南の端、木津川市加茂町の瓶原(みかのはら)と呼ばれる地域にあります。 

 天平12年(西暦740年)に聖武天皇は、平城京から恭仁宮へ都を移すことを決めました。つまり、奈良時代に日本の首都がこの地に造られていたのです。
 恭仁宮が首都であったのはわずか3年余りですが、「国分寺建立の詔」や「墾田永年私財法」といった、現在の教科書にも載っているような有名な法律が作られるなど、歴史上の重要な舞台となりました。
 現在、恭仁宮跡の広い範囲は国指定史跡となっています。

天平の大・引越事業!? 

天平12(740)年からの6年間、聖武天皇は奈良の都を離れ、各地を転々とします。
 740年12月には、恭仁宮を新たな首都と定め、役人にも平城宮から引っ越してくるように命じました。役人だけでなく、大極殿や回廊などの大きな建物も解体して恭仁宮に運ばれました。まさに、天平の大引越事業だったのです。

恭仁宮の発掘調査

 京都府教育委員会では、昭和48年度から恭仁宮の発掘調査を行っており、その姿が次第に明らかになりつつあります。ここでは、恭仁宮を囲む区画施設について、簡単に見ていきましょう。

※上の復元図は平成18年度時点のものです。

大垣(おおがき):恭仁宮は東西560m、南北750mの「大垣」と呼ばれる築地塀に囲まれていました。
大極殿院(だいごくでんいん):宮の中心にあたる場所で、現在でいう国会議事堂のような施設です。今でも基壇や礎石が現地に残されています。
内裏(だいり):天皇が住まいするスペースです。上の復元図では内裏はひとつしか描かれていませんが、近年の調査で、東西2区画がある他の宮では見られない構造であったことがわかりました。
朝堂院(ちょうどういん):役人が執務や儀礼を行う場所です。当時の政治の中心地でした。
朝集院(ちょうしゅういん):役人たちが儀式の際に集まり待機する空間です。

現在も発掘調査を継続して行っていて、年々新たな成果が見つかっています。


お知らせ

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交通案内

〔鉄道、バス利用の場合〕

JR大和路線 加茂駅から徒歩約30分 約2Km

京都駅→(JR奈良線)→木津駅→(JR大和路線)→加茂駅 約60分

〔車利用の場合〕
・京奈和道「山田川IC」から東へ約10km(約15分)・国道24号「上狛四丁町」から国道163号を東へ約5Km(約5分)

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