聚楽第跡

豊臣秀吉が平安京の内裏跡に造営し、後陽成天皇の行幸も迎えた城館です

住所:京都市上京区須浜町ほか

位置:京都府遺跡マップ
標高:50m 比高:0m

概要:関白豊臣秀吉が京都内野に造営した公邸です。築造に関し、『多聞院日記』天正14年(1586)2月27日条の記載から、天正14年(1586)2月には築城を開始していることが分かります。また、『兼見卿記』天正14年2月24日条には、堀は幅20間、深さ3間、四周の延長千間に及ぶとあります。聚楽第の近隣には大名屋敷群が配置され、天正16年(1588)4月に後陽成天皇が行幸されています。聚楽第では、度々茶会や能が催されたほか、琉球王朝使節や、朝鮮王朝使節らの謁見の場としても使用されています。聚楽第築造と連動して、秀吉は京都を再編しており、京中屋敷替え、公家町・寺町の整備、御土居の築造、天正地割の施工などが行われています。

聚楽第は、天正19年(1591)に関白職とともに甥の秀次に譲られることとなり、秀吉は大坂城や指月城を拠点とするようになりました。文禄4年(1595)、秀次は失脚し高野山で自害します。そして翌年8月、秀吉の命により聚楽第は破却され、建物の多くは指月伏見城や寺院に移されることとなりました。

 発掘調査の成果からは、定点となる調査成果がいくつか得られています。平成3年には、本丸東堀と廃棄された多量の瓦が検出されています。平成24年には、本丸南面石垣が総延長32mにわたって検出されています。北之丸では、北之丸北堀の北面石垣の基底石が検出されています。

 聚楽第跡は、豊臣秀吉が京の拠点として築城した本格的な石垣をもつ平地城館です。上部構造物はほぼ削平されていますが、平地城館の変遷を知る上で非常に重要な城館です。

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