伏見城跡・指月城跡、向島城跡

豊臣秀吉が築き、徳川家光までの将軍宣下も行われた、日本最大の城館の一つです

伏見城跡(全体図)

伏見城跡(中心部全形)

伏見城跡(詳細図1)

伏見城跡(詳細図2)

指月城跡

向島城跡

向島城跡(大正11年都市計画図)

<伏見城跡>
位置:京都府遺跡マップ
標高:112m 比高:100m

<指月城跡>
位置:京都府遺跡マップ
標高:40m 比高:25m
<向島城跡>
位置:京都府遺跡マップ
標高:12m 比高:0m

概要:宇治川右岸に広がる丘陵、通称木幡山に位置する豊臣秀吉が築城した城跡です。木幡山の大規模な曲輪群、武家屋敷群、町屋を含めた周囲に惣構を巡らせた広大な範囲を城域としています。城跡の中心部分の多くは、現在宮内庁管理の桃山陵墓地となっています。

 文献史料からみた伏見城の時期区分は、Ⅰ期からⅣ期まで分けて考えられています。Ⅰ期は、天正20年(1592)8月頃に築城が始まった段階で、本格的な築城とは認識されていなかったようです。Ⅱ期は、秀吉が伏見城の拠点化を進めた段階で、文禄3年(1594)に入ってから工事が本格化したようです。Ⅲ期は、慶長の大地震の後に再建された段階で、木幡山に中心部があったと考えられています。Ⅳ期は、徳川氏による再建から廃城までの段階です。文献史料からみた伏見城の最大の画期は、Ⅱ期からⅢ期にあるといえます。

 Ⅰ期の詳細は不明ですが、Ⅱ期は指月城跡と呼ばれています。指月城跡の遺構とされているのが城域の東側の舟入で、深さ20mに及ぶ堀が開削されています。また、平成27年(2015)には城域の中央で石垣が検出されています。この指月城跡は慶長の大地震で甚大な被害を受けたことから、中心部を木幡山に移して現在に残る巨大なⅢ期の伏見城跡へと変貌します。桃山陵墓地内に残る城跡は、旧地形が分からないほど大規模に造成された曲輪群で構成されています。石垣・横堀・虎口などを組み合わせたⅢ期は、豊臣政権の築城技術の集大成といえるものです。続くⅣ期には、関ヶ原の戦いで焼失した建物の作事をはじめとして多くの改修がされているものの、曲輪名称が前段階を引き継いでいる点や、残存する石垣の多くが豊臣期のものである点から、城跡の基本的な構造はⅢ期をそのまま用いているといえます。

 伏見城跡と並行して築城されたのが、宇治川を挟んだ南岸にある向島城跡です。向島城跡は、文禄3年(1594)から築城が開始され、慶長の大地震で天守等が倒壊しながらも整備が続き、慶長2年に完成しています。向島城跡は、伏見城跡に付属する城館として一体化して機能していました。現在も本丸や二の丸跡地の地割や段差が残されており、発掘調査などでは石垣石材も検出されています。

 伏見城跡は、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠・家光が拠点として重視し、周囲に整備された城下町とともに首都として機能した時期もありしました。拠点としての伏見の重要度は、太閤堤による宇治川と巨椋池の分離、西国街道・奈良街道の整備、京都の大改造などとの関連によってより高められ、畿内全体の中心として位置付けられていたともいえます。政権所在地であった伏見城跡が安土桃山時代から江戸時代初頭の歴史に果たした役割は極めて大きく、規模・歴史性・保存状況のいずれの点においても日本を代表する城館の1つです。

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