御土居跡

豊臣秀吉が築いた巨大な堀と土塁で京都の洛中と洛外を分ける、日本最大規模の惣構です

住所:京都市北区紫野上長日町・上堀川町・大宮土居町ほか

位置:京都府遺跡マップ
標高:22~132m  比高:7m

概要:京都市北区から上京区、中京区、下京区、南区にかけて所在します。かつては総延長22.5㎞にわたって堀と土塁が京都の町を取り囲んでいました。現状では断片的に堀と土塁が残存している状態ですが、現在も地割や町名に御土居跡の痕跡をとどめている場所があり、特に御土居跡の北辺部分には現存する部分も多く地割も明瞭に残ります。こうした残存する御土居跡のうち9箇所が国史跡となっています。

 これまでに、発掘調査と立会調査で御土居跡に関係する遺構が多数調査されています。調査の結果、土塁は、基底部幅が約20mあり、土を内側から外側に向かって積み上げることが判明しています。また、堀は幅約20m、検出面からの深さ1.5~2mで、堀底には畝状の凹凸があり、埋土の状況から滞水していていたことも判明しています。

 御土居は、天正19年(1591)閏正月に建設が開始され、2月に過半が完成したと『三藐院記』にあり、少なくとも5月頃までには完成したとされています。完成当初は、10箇所の出入口を設け、土塁上には竹を植えさせたことが『三藐院記』天正十九年三月七日条からわかります。御土居の呼称には「洛中惣構」、「京之惣廻土居」、「京惣堀」、「京廻ノ堤」、「京中惣ほり」、「洛下四方新堤」などがあり、建設当初から京都の町の惣構として認識されていたことがわかります。
 御土居跡は、秀吉の京都改造の一環として構築されたと考えられています。それまで上京・下京に分かれていた京都の町は、聚楽第を中心として御土居に囲まれる一つの都市へと再編されることになりました。単なる防御上の必要性からだけではなく、それまで漠然と認識されていた京都の境界を具体的に明示する目的があったとも考えられます。御土居跡は、日本最大規模の惣構であり、現在にいたる京都の沿革を示す非常に重要な遺跡です。

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