鹿背山城跡

発掘調査などから大和の勢力との関係の強さが判明した、南山城最大級の城館です

住所:木津川市鹿背山鹿曲田・薮ノ浦・古寺

位置:京都府遺跡マップ
標高:136m 比高:90m

概要:木津川が北へ流れを変える屈曲点の南東、通称城山と呼ばれる丘陵頂部に立地しています。東西方向の主尾根上に複数の大規模な曲輪を配置し、この曲輪を中心にそれぞれ南北に派生する支尾根上に曲輪を展開しています。城域の西辺や東辺に畝状竪堀がみられることから、戦国末期まで使用されていたと考えられますが、発掘調査で検出された出土遺物は、15世紀後半から16世紀中葉のものが主体となっています。

 文献では、『大乗院寺社雑事記』の文明元年(1469)7月9日条に「鹿山」の名がみえ、これが、当城跡周辺のことを指しているとみられます。文明17年(1485)4月5日条には興福寺方古市澄胤が鹿背山に布陣しているとあります。『多聞院日記』には、永禄11年(1568)9月2日条には多聞院から派遣された等春と小太郎が、「カセ山」に逃げ入っており、当城を興福寺勢力が維持してきたことが分かります。なお、松永久秀との関連は、文献上は明確でなく、発掘調査の成果やさらなる文献史料調査などの検討が必要です。

 当城跡は、南山城で最大級の城域をもつ点だけでなく、文献史料からみて大和の勢力との関連によって築かれたと想定される点が重要です。松永久秀がどのように関与したかも含め、今後の調査の進展が期待されます。

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