乙訓地域の城館群

乙訓国人一揆を主導した国人衆の城館群です
【石見城跡・物集女城跡・勝龍寺城跡】


石見(いわみ)城跡

住所:京都市西京区大原野石見町

位置:京都府遺跡マップ
標高:46m 比高:2m

概要:小畑川の支流善峯川の右岸の平地に位置します。城跡の南西側にひろがる石見集落との比高差はあまりありませんが、北側は段丘の端にあたるため段差となっています。当城跡の特徴は、平地にありながら土塁と横堀が良好に残存する点にあります。さらに土塁と横堀は屈曲しており、横矢掛けであると評価できます。横堀は、城域北側の段丘崖を利用せず、内側に構築する点も特徴的です。

 文献史料では、文明元年(1470)に東軍の野田泰忠らによって上里・井内館とともに放火されていることが『野田泰忠軍忠状』に記載があります。小野氏を城主とする説もありますが、明確ではありません。

乙訓地域には平地の城館が多い特徴があり、城主名は明らかでないものの良好な保存状況にある点が特筆できます。

物集女(もずめ)城跡

住所:向日市物集女町中条

位置:京都府遺跡マップ
標高:30m 比高:0m

概要:向日丘陵東麓の扇状地上、物集女街道と丹波道が交差する交通の要衝に立地し、現在も土塁と東側の堀が良好に残っています。発掘調査により、堀は少なくとも3方に巡ること、それに伴う土塁が曲輪の周囲に巡らされていることが確認されています。曲輪は、主郭のほか、西側にもその存在が想定されています。

 文献史料から、当城跡を築城したのは物集女氏と考えられています。物集女氏は、15世紀末から16世紀後半まで続いた乙訓地域の国一揆で中心的な役割を果たし、天文15年(1546)ころからは細川氏や三好氏の被官として活発に活動しています。しかし、元亀2年(1571)、当城主であった物集女忠重は、勝龍寺城に入った細川藤孝に恭順しなかったために殺害され、物集女氏の本家は途絶えました。

 当城跡は、文献史料で城主名が明確で、遺構の残りも良好です。また、発掘調査によって城跡の内容もわかる重要な城館です。

勝龍寺(しょうりゅうじ)城跡

住所:長岡京市勝竜寺、東神足2丁目、神足2丁目

位置:京都府遺跡マップ
標高:13m 比高:0m

概要:小畑川と犬川に挟まれた狭隘な平地に位置しています。本丸と沼田丸は都市公園として整備され、本丸を取り巻く土塁と堀が残されています。また、城の南側の現勝龍寺周辺の用水路や道路にも惣構の堀の痕跡を確認することができます。本丸北東側の神足神社境内の南には土塁と堀跡が良好に残存しています。

 当地は、康正3(1457)年頃には山城国守護の郡代役所として機能していたことが『東寺百合文書』の記載からわかります。以降、当城跡は乙訓地域の拠点的な城館として機能していたことが多数の文献史料からわかります。そして、元亀2年(1571)に細川藤孝が入城し、改修を行ったことも「米田家文書」に記載があります。その後、明智光秀の支配下に入りますが、天王山の戦いの後に廃城となっています。

 当城跡は、文献史料から西岡の拠点的な城館であることがわかり、遺構も良好に残っています。また発掘調査によって内容もわかる重要な城館です。

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