山家藩関連の城館群

谷衛友が天正10年に入部以降、幕末まで存続した谷氏の山家藩に関連する城館群です

山家陣屋跡全形

山家陣屋跡中心部絵図

山家城跡

住所:綾部市広瀬町上ノ町・下ノ町ほか

位置:京都府遺跡マップ
標高:115m 比高30m

概要:山家藩関連の城館群は、天正10年(1582)に谷衛友が入部以降幕末まで存続した谷氏の山家藩に関連する城館群です。山家藩は寛永4年(1627)に分藩され、梅迫陣屋、十倉陣屋、上杉陣屋にも拠点を構えています。

 山家陣屋跡は上林川と由良川に挟まれた尾根の突端に立地し、陣屋町は上林川をはさんだ西側の対岸に展開しています。城域最高所に城域最大の面積を持つ曲輪があり、藩庁が置かれていました。そこから南東方向の山裾には、家臣団屋敷地跡が展開しています。

 山家陣屋跡の特徴は、天正10年以降幕末まで続いた山家藩の陣屋全体が良好な状態で残されている点にあります。特に、藩庁跡北西辺の石垣は、垂直に近い勾配で低い石垣を階段状に積み上げて高石垣としており、天正10年の谷衛友入部から時間差のない時期の石垣と評価できます。また、家臣団屋敷跡も屋敷地の区画や遺構が良好に残存します。それぞれの屋敷地は、明治期に記された家臣団の屋敷配置図と照合することも可能です。

 山家陣屋跡の北東丘陵上に位置する山家城跡は、土豪和久氏の居城とされています。和久氏は、織田方についたものの、破城命令に従わなかったことから討伐されたことが文献史料からわかります。城跡への登山道は藩庁跡近くから続いており、陣屋跡と城跡の関連の高さがうかがえます。陣屋成立当初は、丘陵上の山家城跡を詰城、山麓の山家陣屋跡を居館とし、一体として運用されていたと考えられます。

 山家陣屋跡は、詰城跡、藩庁跡、家臣団屋敷跡などの一連の施設の遺構がほぼ完存し、戦国時代の城館から近世の陣屋への変遷過程や、近世の陣屋の全体像がわかるとても貴重な事例です。

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