平成22年度の修了に際して (H.23.3.18 修了式 式辞から)
今日は修了式ということで、年度の終わりに際しての話を用意していたのですけれど、予定を変えて、このたびの大震災に関する話だけします。
初めに震災の様子や印象を述べて、そのあと私から皆さんへのメッセージという順で話します。
先週の3月11日午後2時46分に発生した東北地方から関東の太平洋沖にかけての地震は、想像を絶する大規模、広範囲のもので、津波を伴い、結果、「東北・関東大震災」という、未だかつてない大惨事となりました。はかり知れないほどの多くの方々が亡くなられ、まだなお行方不明の方、数知れずという状況です。このことを哀しみ、悼む気持ちを深くするのは、私もみなさんと変わりありません。発生から一週間たった今も、冷え込みの厳しい中、水、食料、燃料もままならず、40万人以上もの方々が、行く当てもなく避難生活をしておられます。被災された方々に、心からお見舞いの気持ちを抱きます。
十数年の人生しか歩んでないみなさんにとっては、もちろん今回の惨事はまさに未曾有の大きな衝撃、驚きであったことでしょう。多くのことを感じ取り、考えていることと思います。地震に因る家屋の倒壊と、一瞬にして町の家々や車とともに人の命を飲み込んでしまった津波の襲来は、人間の力ではとてもあらがうことのできない、はかり知れない「自然の力、脅威」というものをあらためて見せつけました。また次いで発生した原子力発電所の事故は、放射能の怖さのみならず、人の手で作り上げたものが、人の手に負えないものになってしまうという、皮肉な様相を示しています。発電所では、今なお危険にさらされながらも、あらゆる知識や技術を使って関係者たちが必死の努力をされていますが、この現実は、人間がこれまで積み重ねてきた科学の発展、知恵というものが、まだまだ及ばない世界があるということを知らしめます。
そして、みなさんはニュースなどを通して、人の生きる姿、有様もさまざま見知ったことと思います。子どもを、あるいは家族を見失い叫び続けて尋ね歩く人、泣き崩れる姿、家も田畑も一瞬に失い、呆然と立ち尽くす人、高校への入学試験を受けたのに、明日が見えない中学生。救出に駆けつけ、がれきと泥の中で懸命に作業する人々、身の危険を承知で放射能の脅威に立ち向かう人々もいます。役場や避難所で立ち働く人、食事や毛布を提供する人、そして互いに励まし協力しあう被災者たち。奪い合うという醜いこともせず列を作って順番待ちをする人たち。
その一方で、みんな必死で生きようとしている被災者の気持ちや状況を思いやることもできず、買い占めをするなど勝手な動きをする人もいるし、それどころか、よからぬ情報を流したり、詐欺のメイルを仕掛けて人をだます、貧しい心の持ち主も出現する。
被災地から遠く離れている京都においても、さまざまな関わりが出てくることでしょう。電気、石油などのエネルギー資源、農産物、工業製品、物流、等々、国全体として深いつながりがありますし、行事や旅行なども中止になったりもする。京都の町にも被災者の方、子ども生徒を迎え入れることも考えられることの一つでしょう。そういう間接的な関わりを言う前に、もしかして、みなさんの中に、身近な人が被災地に関わっておられるということもあるかもしれません。
いずれにしても、復興に向けて長い時間をかけて、日本全体が力を合わせなければならないし、必ず立ち直れるものです。当面の救助、支援段階にあっては、被災地の立場を思い計っての、冷静な言葉や行動を心がけることが大切だと考えます。
震災について語らなければならないことはまだまだあるでしょうが、それはおいて、ここで、私は、みなさんに三つのメッセージを伝えようとしています。
まず一つは人は共感できる生き物であるということです。あの「進化論」で有名なダーウィンは解けない疑問を抱えていました。それは、あらゆる生き物は自分が生き残るために進化し、生存競争をしますが、人間だけがどうして、人を助けようとする行動ができるのかということです。自分の食べ物を分け与えたり、自分のことを犠牲にしてまで、場合によっては命の危険も顧みず、他者を助けようとする。この崇高な人間の行動の意味が彼には謎であったのです。その答えは後の時代の「社会学」の研究を待つことになりました。人間は互いに「共感し」さらに「同情」つまり、他者と同じ心になって行動できるということ。このことが人と人とのつながりを生み、互いに支え合い、それが生きる力をもたらすという、つまり人類が社会性を備えたということなのです。
生徒自治会ではいち早く募金活動をしてくれましたが、同じ心の動きですね。自分も助けるために何かしたい、できることは何か、というふうに心が働くのです。ラジオでは毎日被災者への励ましのお便りが読み上げられたりしています。
次に、使命感ということです。みなさんが将来の自分、進路を考える時、社会と関わる中で、一つ、強い責任感というか使命感を見出していくことが大切だろうということ。被災地に駆けつけた救助の人々、例えば警察、消防、自衛隊員、外国からのレスキュー隊員、役場の公務員、科学者たちは、おそらく「自分が行かなくてどうするんだ」という使命感を抱き、最前線で力を尽くしているのですが、場合によっては死ぬかも知れないという覚悟をもって臨んでおられる。実際、多くの方が行方不明になっておられます。それらの人たちには「できることなら行かないで欲しい、行って欲しくない」と願う家族、子どもたちもいることでしょう。それを振り切ってでも出かけなければならない。それが仕事における使命、社会に貢献するということです。ことわっておきますが、私はみなさんに、そういう危険に臨む仕事をして欲しいと言っているわけではありません。例えば、地震の到来を正確に予知する研究をするとか、クリーンなエネルギーの開発でもいい、緊急避難をスムーズに図る組織研究や、社会行動学でもいい、医療や、看護にあたる仕事、被害者の心のケアができる仕事など、将来に向けて、社会の中で、自分にできそうなこと、しなくちゃならないと思えることを見い出してくれたらなぁ、と望んでいるのです。
三つ目は、何よりも人として「強い生きる意志」を持ちたいということ。
現実の生活も、明日の夢も、愛する人の命も、何もかも失って、それでも立ち直って生きていこうとする被災された人の心。私の場合、そのようになったら、果たしてそんな気持ちになれるだろうかと、あまり自信はありません。けれど、人生の途上では、突然、不条理な、不幸で悲惨な目にあうことは起こりうることであります。それでも希望を見い出して生きて行くのが人間の強さというものです。私たちは、いつかは遭遇するであろう、家族を始め、愛する人との突然の死別とか、もしかしたら経験するかも知れない大きな災害においても、悲しみに明け暮れず、打ちのめされない強い心を培いたいものだと願うばかりです。
以上、「共感」「使命感」「強い意志」という三つの言葉をみなさんに伝えました。それと共に、被災地の復興を願い、わが国全体が一日も早く元気になるようにと、みなさんと一緒に祈りたく思う。
最後に、明日から春休みに入りますが、それぞれ新年度に向けて、しっかりと心を整え、準備もして、有意義な時間を過ごすように。以上式辞とします。
巣立ちの日に (H.23.3.1第63回卒業証書授与式式辞から)
卒業生の皆さん、おめでとう。入学以来のさまざまな活動の積み重ねと、多くの人との交わりを通して、数え切れない学びがあったことと思います。課題を乗り越え、強く、大きくなって、この日を迎えることができました。先ほど授与した「卒業証書」は「よりよく生きる」力を備えたという証、いわば「人生の旅」を続けるためのパスポートです。
「人生の旅」は遙かに遠く、また容易ではない。人と人との関わりの中で、思うようにならないことや、不条理で納得のいかないことも渦巻いています。かと言って、大海原へ出た船は、故障したとしても、持ち合わせの道具と知恵で修理をして、旅を続けなくてはならない。人生には退く場所がありません。ですから、皆さんには、これまでに備えた力を、さらに鍛え、磨く努力を続けるように、と望みます。
ベルギーの作家、メーテルリンクの「青い鳥」の話を知っているでしょう。魔法使いから「青い鳥を捕まえれば豊かで幸せになれる」と聞いた兄と妹は、探し求めて長い旅に出かけます。結果、青い鳥は見つからず、結局、家にいた鳥が青い鳥。幸せは身近な所、日常にあったという話ですね。実は、この話は戯曲として書かれていて、違う結末になっています。その家にいた青い鳥も結局逃げてどこかへ行ってしまいます。ハッピーエンドではないのです。この結末について考えてみてください。私が思いますに、「これが幸せ」という形はないのだということ。幸せというものは「よりよくなろう」と、向上を望み、克服する努力を続ける、その心の中に在るのだということでしょうか。
今、私たちの社会は「生きづらい社会」さらには「生き残りの時代」とさえ言われます。確かに経済をはじめ厳しい状況にあることは否めません。ですが、困難や辛いことはいつの時代にも待ち受けているものなのです。私たちは、逆に自らが待ち受けるぐらいの、聡明で強い心を、また行動力を備えなければなりません。
そのためには何が必要なのでしょう。それは物の見え方、物の見方にかかっていると思います。「暗闇での蝋燭」という例えで話をします。真っ暗な闇の中にいるとします。何も見えないからと、蝋燭をともします。すると身近な範囲はよく見えるのですが、逆に、まわりの状況、広い範囲はかえって見えなくなってしまいます。そこで明かりを消して、じっと眼をこらせば、暗闇でも、次第にあたりの様子が見えてくるではありませんか。
社会というものは、混沌とした状況になればなるほど、手元には一方的、あるいは断片的な情報ばかりが集まったり、人の心をあおるような言葉や噂が多く聞こえてくるようなところがあります。つい、そればかりしか見えなくなって「その通りだ」と思いこんでしまいがちです。しかし、それによって右往左往したり、あるいは繰り返し唱えられる言葉に制圧されてはいけません。物事というのは視点や認識の角度を変えると大きな全体像が見えて来るものです。近視眼的に物事を観るのではなく、冷静に目を凝らしてみて、判断するようになって欲しいです。大切な局面であればあるほど、静かな語りかけによって人に伝え、また受け入れるというようで在りたい。そんな社会を実現する一員になってください。
保護者の皆様に申し上げます。皆様が大切に育ててこられたお子様が今、本校の全教育課程を終えました。まことにおめでとうございます。大人の子どもへの愛情というものは、青年期の子どもたちにとっては、自分を守ってくれると同時に、自身を狭い枠に閉じ込め、束縛する、いわば透明な「格子」のようなものだと思えます。けれども、人が生きていくためには、どうしてもこの「見守る」と「閉じこめる」という相反する性質を持つ「格子」をいくつも通過しなければならない、そのことで豊かに成長できるのだと考えられます。今日は、お子さまの誕生以来の、来し方の出来事や御苦労も振り返られながら、子どもを育むことの重み、喜びに感じ入られ、ともに祝っていただきたく存じます。
私たち教職員一同も、自らに「はたして大切なことをどれだけ伝えられただろうか」と問うてみます。その思いで日々心をくだいてまいりました。私たちの言葉が必ずしも素直に受け容れられるものばかりではなかっただろうと思いますけれども、子どもたちは、心の内のどこかに留めてくれていて、自分自身の生き方に活かしてくれるものと、今、信じています。
皆様には、これまで本校に信頼を寄せていただき、教育活動に御協力、御支援をいただきましたこと、あらためて厚く感謝申し上げます。
また御来賓の方々には、本校や子どもたちのために、親身になっていろいろお世話くださり、支えていただきました。誠にありがとうございました。
さて、卒業生の皆さん。この日をもって、お別れです。先生方との関わりを振り返ってみてください。授業やHR、学年の集会などを通して、先生方から、実に多くの語りかけがあったことと思います。皆さんはそのつど、先生方の心、願いをしっかりと受けとめてくれて、次第に育ってくれたのだと私は感じています。それは皆さんと先生方とが、最後まで信じ合えた、ということではないでしょうか。今、このように凛としたまなざしと立派な姿を見せている皆さんを前にして、私はほんとうに胸が熱くなります。
生きていくということ。それは自分の歩いて行く後ろに、二度と立ち戻れない道を作っているようなものだと思います。けれども、歩み来た道を顧みることは、進むべき方向をも確かにしてくれるものです。ですから、時折、山城高校で過ごした時間、さまざまな場面を思い起こしてください。何事に対しても、ひたむきだった自分の姿、がんばろうと言い聞かせることができた強さ、涙を流した悔しい時間、友達との語らい、忙しい中、毎日毎日、学校へ送りだしてくれた家族の人たち、そして、沢山のことを教えてくれた先生の言葉の数々。それらの思い出が、きっと皆さんに力をもたらしてくれることでしょう。
結びにあたり、皆さんが、多くの人々から敬愛され、幸多い人生を歩まれることを心から祈り、式辞とします。
「面」 (H.23.2.28PTA広報誌掲載原稿から)
この生きづらいと感じる社会において最も大切なものは何かと考えたとき、人との関係をつなぐことの大切さに思い至ります。そしてその基本は顔を合わせて話すことです。他の動物とは異なり、人の顔、眼は正面を向いていて、互いに表情を読みとるのに都合よく進化してきました。顔色、眼を通して心を通わせることができるようになったのです。だからこそ人をよく知りたい時は「面接」をする。強く伝えたい時は「面」と向かってものを言い、聴いてくれない相手には「こっちを向いて」と願うのです。特にあいさつや、食事を共にしながらの会話という、生涯、何万回と繰り返されるこの営みは、瞬時に相手の微妙な心をよみとり、共感し、気遣う力を一層高める場となっていると思われます。
近年、若者の就職難、離職の現状をめぐって、「社会力」「コミュニケーション力」を育成すべしと唱えられますが、それはさほど難しい訓練をするということでもなく、人間社会の原点とも言うべき「対面の場」がしっかりとできるように子どもたちを育むことだと私は思います。「面会」「面談」「面識」を通じ「面目」を得て、社会の中で人と結びあって、よりよく生きて行くことができるのです。
新入生を迎えて (H.22.4 第63回入学式 式辞から)
いま四百七名の入学を許可し,あらたに本校の1年生として皆さんを迎えることができました。新入生の皆さん、入学おめでとう。また、保護者の皆様には、お子様のご入学を心からお祝い申し上げます。本校の教職員,在校生並びに関係の皆様の全てが心から歓迎いたします。
見事に試験に合格し、入学を迎えた皆さんの今の気持ちは、喜びと期待に満ちていることと思います。入学を果たすことができた自信を支えにして、また自分のことを見守り支え続けてくれた多くの人々への感謝と、励まし合った友だちのことなど、さまざまに去来する今の気持ちを忘れることなく、憧れの山城高校の生活をスタートさせてください。
皆さんを迎える山城高校は百年を超える歴史と伝統のある学校です。これまで三万六千名もの多くの先輩方と、保護者の方々、教職員が協力しあって、すばらしい校風や教育環境を築いて来ました。その甲斐あって、学習と部活動の文武両道において成果をあげ、著名な先輩方も多くおられる、府内、国内でも、有数の学校として輝かしい存在を示しております。皆さんがこの学校で学ぶことに誇りを持ち、一層、立派な校風をつくってくれることを願っています。
今日、皆さんに伝えたいことは、学習に臨む心構えについてです。しっかり聴いてください。高校生活では多くのことを学びます。授業だけでも二千数百時間あります。科目も一年から二年、三年へと進むにつれ、非常に高度な内容となって行きます。従ってその科目ごとに専門の先生がいて、そのもとで学ぶこととなります。皆さん、これまで小学校、中学校と歩んで来たわけですけれども、学習の道のりは、はるかに遠く続くものです。高校の学習生活も、その途上に過ぎません。では、この道のりをどのように私たちは歩めばいいのか、と言うと、残念ながら特別のうまい方法はありません。古来「学問に王道なし」と言われるように、学習する上で近道というものはない。ですから、高校の勉強が高度であるからといって特別な方法が要るわけでもなく、皆さんがこれまでやってきたように根気よく着々と積み上げるしかないのです。しかし、その積み重ねたことは決して消えることなく、奪われることなく確かに身に付くものなのです。
江戸時代の学者に本居宣長という人がいました。多くの業績を残していますが、彼は17才の頃に古典作品の研究をすることを決意します。皆さん「古事記」という古代の歴史書があることを知っていると思いますが、彼が生きていた頃では、成立から1000年も経っていて全く解読不能となっていたのです。そこで彼は、まず辞書づくりに10年間費やします。実に35年間かけて全44巻からなる研究書を著し、古事記を解き明かしたのです。彼は亡くなる前にこんなことを言っています。古文では難しいので、現代語に直しますとこうなります。「結局のところ、勉強というものは、だだ長い時間をかけて、飽きずに、おこたることなく、励んで努めるだけである。学習の方法や手段はどのようでもよいのであって、そのことばかりに気にしてはいけない」と述べています。
この世の中のことや人の営みは難しいことが多くて、経験を重ねないとなかなか身に付かないものですが、その内で、机や書物に向かってする知識的な勉強とか、スポーツの技術や競技力といったものは、努力すれば必ず向上し、達成します。それはなぜでしょうか。それらは、めざす所や得ようとする事がはっきりしているからなのです。人生の喜びや幸せというものは、実に「努力の中に宿っている」と信じてください。
もちろん、みなさん一人に「努力しなさい」と言うのではありません。何事も身に付けるためには、理解の仕方をちょっと授けてくれる人がいるわけです。それが先生ですね。本校の先生方は専門性も高く、熱心に皆さんを指導し、支えてくれます。そして人生の先輩として、皆さんに生きる力と勇気を与えてくださいます。自分一人で考え、勉強するのは立派のようですが、一人でものが見える範囲、考えたり思い及ぶ程度というものは狭いものです。勉強する上で、自分自身の思いこみやこだわりが理解を妨げるということがよくあります。ですから皆さん、学習に臨む時には、あるいは先生方と向き合う時には、また書物が語りかけてくるその言葉に対しても、まずは心開いて、謙虚に迎え入れるという気持ちが大切です。そうすれば見えてくることや、学ぶことが、ずいぶんと多くなってきます。
保護者の皆様に一言申し上げます。今日から私たち教職員は大切なお子様をお預かりすることとなります。三年後には子どもたちが将来の社会の担い手として立派に育ち、皆様方から「山城高校に行かせて本当によかったです」と言っていただくよう、一人一人を大切に指導して、皆様方の期待に応える決意でございます。
皆様方も、私たちも、当然のことながら大人としての知識も、知恵も経験も豊かですので、子どもたちが例えば困難に行き当たり、悩んだ時に、私たちにはその解決の方向がよく見えるということがあります。そこで、子どものことが可愛いものですから、つい知恵を授けたり、答えを教えてしまったり、先回りして苦しみの原因を除去しようとしがちです。でも、考えてみますと、かつて私たちも、そういう場面に何度か出くわして、乗り越えて強くなってきたということがあります。ですから、時には子ども自身を前面に押し出して、彼らのがんばりを「待つ」ということが、きわめて大切ではないかと思います。また、子どもたちにとって高校時代はきわめて多忙で、また精神的に多くのもつれを抱える時です。学習でのつまづきに、部活動に、あるいは友達とのことで、また自らの生き方にと、悩み多いものがあろうかと思います。子どもたちは日々、がんばってくれますが、人は弱いものですから、ついそこを避けようとしたり、怠けも生じるというものです。そういう時には叱り、時には許しという具合に大きく包んでやる。どうか「信じて待つ」という気持ちで私たちと力を合わせて育んでいただきたく存じます。この日を契機に、山城高校の教育活動に一層のご理解とご協力をいただきますようお願い申し上げます。
さて、新入生の皆さん。これからの学校生活では二つの時間があると思います。「今を生きる時間」と「明日のために生きる時間」です。かけがえのない、今この時を思う存分生きることが大切ですし、併せて自分の明日、将来のために、志を立てて、それに向けて、人として、さまざまな力をつけることもまた、忘れてはいけません。この二つの時間を意識しておいてください。
年度初めのことば (H.22.4.第一学期始業式 式辞から)
新しい季節が巡ってきました。春の光も、風も心地よく、花も咲き誇って、いい季節です。 学校として今日の午後、407名の新入生を迎えますし、みなさんにとっても、初めての先生、新しい科目も習うし、学校中のみんなが、心新たに、新しい生活を始めるという日、この日は、希望に満ち満ちた日と言えると思います。
人は歩んできた過去は変えられないのですけれど、未来は、文字どおりまだ来ないという意味ですから、まだ見ぬ展開があるということです。自分の気持ちさえ、変われば違う自分が見えてくるし、気持ちの持ち方で、この先の展開もなんとでもなるし、実現もする、このことの重みを感じ取って欲しいです。
今日は、一つの内容だけ、話したいと思います。それは、自分が願ったことが実現するかしないか、いわゆる「事が叶えられるか、叶えられないか」のポイントは「全体像、理想像をはっきりと描くかどうか」にあるという話です。
夏目漱石の作品に「夢十夜」という短編の面白いのがあります。一度読んで見てください。夢に出てきた話ということで十の話が書かれていまして、その中にこんなのがあります。
運慶という人が夢に出てきます。この人は鎌倉時代の人で仏像を彫る名人と伝えられた人ですけれど、その人が、あるお寺の山門で仁王像を懸命に彫っていて、まわりで大勢の見物人が騒いで見ているというのです。筆者は、運慶がこの明治時代に生きているのは不思議だなぁと思いながら、見事に仁王像が彫られて行くのを見ていましたが、傍で見ていた別の人が『あれは仁王像を彫っているのではなくて、あの木材の中に仁王が既に埋まっていて、それを掘り出しているんだけなんだよ』と言うのです。そこで筆者は家へ帰って、木材を彫ってみるんですが、仁王像なんてものは埋まってなかった。で、筆者は言うんですね。『だから運慶が明治時代の今になっても生きている理由がよくわかった』と。この話の意味、とらえられるでしょうか。彫る前に、しっかりとした確かな全体像、彫りたい像のイメージをもって、物事にとりかかることの大切さ、そして難しさのようなことを思わせます。
将棋とか、囲碁とかのゲームを知っている人も多いかと思いますが、今、戦っているその箇所、部分だけにとらわれているようでは、なかなか強くなれません。常に、将棋や囲碁の盤一面という大きな状況、つまり全体像を、また時間の全体の流れ、つまり、それまでどういう考え方で手を進めてきたのか、そしてこの先、どういうふうに持って行くのか、というゲームの流れ全体を考えないと、なかなか勝てない。全体を考えつつ今、ぶつかっている局面、つまり部分の事を考えられるようになると強くなってきます。要するに今、関わっている部分は全体とどう関連しているか、逆に全体は、今の部分とどう関わっているかというようなことを考える。
スポーツの世界でも同じだと思います。よく「イメージトレーニング」ということをしますね。中距離を走るのに、どの地点どの地点でどのように走り、全体としてどんな風な走りをするかと、予め想い描くわけですね。サッカーやバスケットなどでも、壁パスを使うとか、単に部分的な動きだけでなく、ピッチやコート全体を使って、シュートまで持って行くイメージを思い浮かべ、その関連で、今のプレーがあるというふうに考えないと、強くなれない。野球でもハンドボールでも、みんな同じでしょう。絵を描いたり、運慶のように、何か、物を造ったりするのも、みんな同じです。つまり、理想のイメージをしっかり頭に描いて、それに向けて部分を仕上げて行くということです。
今日の話の趣旨が、みなさんには、もうわかってきたと思います。
何事かをなすには、「結局、自分はどういうことをしたいのか」「何がしたいのか」を考えることと、これは全体ですね、次にそのために、今やっていることをどう取り組むか、これ部分ですね、常に考え合わせていくということなんです。
みなさん、そういうことが大切だともちろんわかるんでしょうが、私たちは、どうしても、日常の慌ただしさや、しんどさに気持ちがとらわれてしまって、つい今のことだけ、目先のことだけしか見えなくなるものなのです。これは誰もが陥いりやすいことなのです。だから、意識的にそういうものの考え方を身につけて行かなければなりません。道に迷う人は、部分しか見えないから迷うのであって、地図を広げて、全体の中での自分の位置を確かめようとすれば大丈夫ですし、鳥は、空高く飛び上がって全体を眺めようとするから、ちゃんと、ねぐらへ行き着くことができる。
私の場合、よく文章を書きますが、その時に、一体、自分は何が言いたいのか、よくわからなくなり、文章も乱れてくることがあります。そんな時、もう一度、始めから全体を読み直します。みなさんも難しい文章は前に立ち戻って読み返したりするでしょう。部分が見えなくなったら全体を考えて見る。そして再び部分に立ち戻る。
今年度、一年間、自分はどういう姿を目指すのかイメージを持って、そのことを時折、点検、確認しつつ、日毎の営みに集中することを心がけてください。特に三年生の皆さんにあっては、卒業に向けて、進路実現ということがありますが、やりたいこと、理想像、到達すべき目標点をしっかり意識しながら、取り組む内容を位置づけて、一つずつ重ねて行けばよいと思います。