校区周辺探索イラストマップ
(その3)校区の小さな大発見

今、校区内にあるものといえば、交番が1つ、郵便局が2つ、学校が3つ、信号が4つ、ポストが6つ、無人販売所がいっぱい。
 そんなのどかな四中校区なのですが、校内区のちょっとした話の種をあつめてみました。


@ 「トッテンカン、トッテンカン」乙訓の名人・鍛冶屋さんがいた!
20年前、長四中の敷地は竹林でした。竹といえば「京タケノコ」、白く柔らかいタケノコは長岡京市の特産物で高級品となっています。そこで登場するのが、竹やぶの土の中からタケノコを傷つけずに掘り出す専用の「ホリ」と呼ばれる農具です。
 そして、この「ホリ」づくりの名人の鍛冶屋さんが、校区内にいた加茂辰造さん(下海印寺西条 5)でした。昔ながらの職人わざで、まさに手づくり、農家に欠かせない農具となっていたのです。加茂家の野鍛冶業は、平成元年に辰造氏が亡くなるまで続けられてきました。


 
名鍛冶屋、加茂辰三さん (現在、住居は移転)
 その後、加茂家の鍛冶屋用具一式は長岡京市に寄託きれ「京タケノコと鍛冶文化」の重要な資料として残されています。


A 西川橋のはなし
 四中の坂を下りた所で小泉川を渡る橋が、西川橋です。この橋、今はおおむね南北に架かっていますが、昔は東西に架かっていたのです??。 ではどうやって渡ったのでしょうか?。
 乙訓では豪雨による水害も多く、小泉川も昭和10年、下海印寺付近で堤防を越えて水が溢れ農地を浸し、下流の小倉橋が崩れ落ちました。
 そのころ小泉川は西川橋の少し上流で右に大きく曲がり丘陵部の裾に沿って流れた後、左に向きを変え、再び右へとS字に蛇行していました。
 実は小泉川はこの付近で流路を直線的に改修されたのです。以前は、橋の下流で精霊流しなども行われ、堤に多くの人が集まったといいます。
 また、当時の橋が絵本の挿絵になったとか、見てみたいものです。


昭和34年の小泉川

B 枚区内のへんな言い伝え
 昔から、奥海印寺ではなんと、”そら豆”を作ってはいけないたとされていたのです!。開田地区でも同じで、こちらは氏神の菅原道真公が太宰府でそら豆につかまって上ろうとしてスポッとぬけ上陸失敗、梅の木でうまく上がれたので、そら豆を嫌ったとか。奥海印寺では走田神社に合祀されていた妙見様がそら豆を嫌うからとされていました。(でも本当は、どちらもそら豆栽培には土質があわなかったようです。)


C ちょっと怖いはなし
 これはむかし、海印寺のあたりでのお話です。 ある日の夕方、花山地区がまだ竹やぶだった頃、夕立の後に小さな橙色がかった火が五・六個点滅しながら上下にゆれ西に動いていきます。竹やぶの向こうは新京阪竜車(現・阪急)、しかし線路工夫の電灯とは明らかに異なるもので、まさに狐の嫁入りだったとか!、まるで幻影のような狐火が見られたそうです。また、深夜には、天王山の方向からしばしば陣太鼓の音が聞こえてきたりしたといいます。山崎合戦の名残だったのでしょうか??。
 これは今、校区内の話です。阪神淡路大震災は記憶に新しい出来事ですが、実は校区内にも活断層が存在するのです。走田断層と金ヶ原断層がそれです。そこで、いざというときのために防災施設がつくられています。耐震性の貯水槽が奥海印寺自治会館と坂ノ尻公園に、また西乙訓高杖・長岡第四中学校・長岡第五小学校・海印寺保育園は避難場所に当てられています。
 このなかでも長四中には、武道場の下に備蓄倉庫や造水機・エアテントが配備されており、1,750人収容可能な避難施設なのです。 覚えておいてください。


■引用・転載■   。.:*・゜゜・*:.。.ミ ☆
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長岡第四中学校 創立20周年記念誌
   『今を大切に』
 より 。.:*・゜゜・*:.。.ミ ☆
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