校区周辺探索イラストマップ
(その1)校区の今・昔
@ 長四中周辺、むかしはこうだった!

  
  20年前(1982年頃)の長四中周辺    現在(2004年)の長四中周辺
A 長四中創立で、遺跡発見される!
 長四中の地は、昔の長岡京の住所なら右京七条四坊十五町(京の西の端)。
 しかし、地形的に長岡京の遺跡の存在は疑われていました。ところが四中建設のために行われた発掘調査で、長岡京時代の祭祀遺物が、現在の長四中のテニスコート真下の旧河原より多量に出土、西山田遺跡の誕生となりました。
 この祭祀遺物、校内のショーケースに展示されていますが、目を引くのが土馬と墨書人面土器です。
 土馬は雨乞いなどの祭礼に使われた後、意図的に壊され捨てられたらしく、墨書人面土器は、壷や甕のかたちの土器に人面や線を書いたもので、病人の息を中に吹き込んで蓋をし、病と疫病神を一緒に流し去るために使われたようです。


B 海印寺ってどこに?
 校区内の昔の名所と来れば、楊谷寺や海印寺??。しかし、海印寺というお寺は見当たりません、海印寺って地名があるのにどうなってるの?と疑問を持ったことはありませんか。実は寂照院というお寺がその名残りなのです。
 海印寺は、弘仁10年(819)に東大寺の僧佐伯道雄によって創建、その搭中10院のひとつが寂照院だったのです。僧道雄は兼ねてから修行場づくりを願っていましたが、夢で乙訓郡木上山に地形・風光の良地を見て、翌日、現地におもむき造寺を始めます。10の堂舎がつくられ海印寺と名づけられ、嵯峨天皇の御願寺となるほどの大寺院でした。
 しかし、応仁の乱で消失し寂照院だけが残ったのです。「海・印」とは華厳経の中の言葉で「永遠の時間と無限の距離」・「絶対真理」を意味します。海印寺の範囲や配置はわかっていませんが、奥海印寺・下海印寺の両地区に及ぶ広大なものと考えられています。(韓国にも同名の寺があり、以前に地区の有志の方が訪問調査されましたが両者の関係は判りませんでした。)


C 阿弥陀寺を忘れないで!
 長四中に最も近いお寺といえば阿弥陀寺!。梅が丘や花山方面の通学路沿いに田苗池といって鯉がたくさん泳いでいる池が寺の東側にあります。梅雨の頃には池のそばでガクアジサイが咲き、冬には南天の実が赤く成ります。 寺の創建は明らかではありませんが、現在の建物は天保10年(1829)に再建されました。 釘を一本も使わない組木づくりで、仏間の中央には阿弥陀如来坐像がまつられています。
 周囲を石垣と白壁にかこまれひっそりとしたたたずまいで、少しだけ別世界に来たような気持ちになります。表門を入って右側にあるお地蔵様は再建後10年して造られたとかで、少し面長で柔和な顔つき、北向き地蔵で願い事によく効くあらたかな仏といわれ今もお供えが絶えません。受験にもよく効くとか!。

(註.阿弥陀寺は外環道路予定地にかかっています。)


■引用・転載■   。.:*・゜゜・*:.。.ミ ☆
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長岡第四中学校 創立20周年記念誌
 『今を大切に』
 より 。.:*・゜゜・*:.。.ミ ☆
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