2013/09/09
 
 

(銘板の文章)

 江戸時代、伏見京橋から京都七条東洞院までの竹田街道(車道)は、伏見港に荷揚 げされた米などを京都へ運ぶ牛車の専用道路であった。車道は、人や馬の通る往還の 保全や通行人の安全確保から、人や馬の通る道より一段低いところに設けられていた。

 この区間は、京都市中の小河川が集まる低湿地帯で、雨でも降れば土道である街道 はぬかるみ、牛車の車輪がぬかるみにとられてスムーズに通ることができなかった。

 そこで江戸時代の後期に、車道の車輪の通るところを、規格化された厚板石を二列 に敷き並べ、牛車を通りやすくした。この敷石が車石(輪形石)である。

 梅雨や台風の時期になると、川の水があふれ、車道に水が流れ込み小川のようになる ことが多く、竹田街道の風物詩となった。

 車石に残る深い轍の跡は、重量物を運ぶ牛車の頻繁な往来によりできたものである。

 これらの車石は、松井博史氏(伏見区)から寄贈されたもので、上は竹田街道に敷 かれていた石(六甲花尚岩)で、下は京津街道に敷かれていた石(藤尾石)である。左 は溝部分で割れた竹田街道の車石で、この築山の中に全部で6個が確認されている。

平成25年6月吉日桃山同窓会

 
 

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