教育長過去のエッセィ
2007.9   
 9月5、6日「ふれあい・心のステーション」が大丸京都店のフロアで開催されました。
 特別支援学校の生徒たちの製作した作品などを販売するこの催しも今年で12回目。
 「私たちは、卒業してから働きたいと思っています。皆さんにチャレンジする姿を見てもらいたい」丹波養護学校生徒の力強い開会の挨拶で始まりました。

 実は、大丸京都店と特別支援学校は奇妙な縁で結ばれています。

 大丸京都店が現在の四条通に移ったのは明治45年のこと。それまでは御池東洞院上ル船屋町というところにありました。全国屈指の呉服商・大文字屋(大丸屋)下村正右衛門所有の建物で元生糸改会所でした。

 当時その地には東店と西店があり、西側に敷地2千坪の豪壮な総本店、東側に小売店があったといいます。その東側の地が日本で最初の盲唖院の開設場所の候補となったのです。まさに今日の特別支援教育の先駆でした。

 下村は府から校地・校舎の提供要請を受け、明治11年4月20日に受諾書(御受書)を槇村知事に提出。古河太四郎はじめ先駆者達の尽力で進められてきた盲唖院の開設準備が急ピッチで整えられます。

 明治11年5月24日、盲唖院の開業式が盛大に挙行されました。記念すべき式典の感動的な模様については「大坂日報」の記事がよく知られています。

  「〜最早十一時を過れど雨ハ益々降りけるが、本日の開業式は
   日本にて始ての開院なれバ延す訳にならず且つ式を拝見せん
   と雨を厭わず市中の老若男女我れも我れもと推かける〜(中略)
   此の開業は実に我国の美事と云ふべし」(大坂日報)

 当日の入学生はわずか48人でしたが、朝からの豪雨にもかかわらず、一般参加した人々は3千人といわれています。

 この船屋町の盲唖院はあくまで仮校舎でした。その後、曲折を経て明治12年9月12日に船屋町から現在の第二赤十字病院のある釜座椹木町に移転します。
 今の府庁の位置にあった京都府中学(のちの京都一中)や師範学校、慶応義塾分校などとともに一帯はさながら学校街の風景をつくりだしていたのです。

 さて、大文字屋(大丸屋)の創業者とされる下村正啓(1688〜1748)は「先義後利」(義を先にして利を後にする)を事業の経営理念とし、社会に貢献することを第一としていました。多くの人々の支援によって、本府の先進的な教育が可能になってきたのだと思います。

 今年は特別支援教育に関する法整備がされ、いわば特別支援教育元年。先駆者の熱意と苦難の歴史を想い、地域のみなさんの御支援を仰ぎながらこれからの時代を見通した教育推進に臨みたいと思います。

 「ふれあい・心のステーション」は今年も盛況のうちに終了しました。
 私の執務室には舞鶴養護学校の生徒の皆さんの作品である「藍染のれん」が爽やかに揺れています。


(参考)
 「京都府盲聾教育百年史」(昭和53)
 「近代盲聾教育の成立と発展・古河太四郎の生涯から」(NHK出版 平成9)
 「大丸二百五十年史」(昭和42)
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