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学校生活

 

本校の開校当初、現在のグラウンド部分には宮ノ平古墳群がありました。昭和49年にグラウンド全面拡張整備開始とともに撤去された二基の古墳は、本校において資料保存となりました。その資料が、この度京都文化博物館で開催される「京都府内の学校所蔵考古・歴史資料展」に展示されます。開催期間は平成28年8月13日(土)から10月10日(月)。高校生以下は入場無料です。この機会に京都文化博物館に、ぜひお訪ね下さい。

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城陽高校には古墳があった!(宮ノ平古墳群)


【3基の古墳】(宮ノ平古墳群5基のうち3基が校内にありました)
皆さんは城陽高校のグラウンドに3つの古墳があったのを知っていますか。グランドの東から西へ順番に、宮ノ平1号墳(一辺25mの方墳)、宮ノ平2号墳(一辺29mの方墳)、宮ノ平3号墳(全長38mの帆立貝式古墳)が並んでいました。今は全く整地されわからなくなっていますが、毎日、体育の授業やクラブ活動で運動している場所に古墳が3つもあったのです。それでは、高校建設当時の発掘の経緯を見てみましょう。文化財の保護を巡って紆余曲折があったことがうかがわれます。

発掘の経緯


昭和45年6月、京都府教育委員会は京都府南部の高校生急増対策として、本校を城陽町(現城陽市)に建設することを決定しました。
昭和46年1月、城陽町の文化財保護団体により親設高校予定地に古墳らしきものがある旨文化財保護課に連絡があり、同時期に調査により古墳の存在が確認されました。これを受け建設を進める京都府庁の管理課と文化財保護課の協議により、校舎配置の設計変更等も行われました。
昭和46年5月から7月までの第1次調査では、当初2基と思われていた古墳が3基であることが確認されました。特に2号機は東側と南側に造り出しを持つ全国でも特殊な方墳であること等から、京都府文化財専門員他歴史学者9名からも現状保存要望書も提出され、マスコミからも注目を受けていました。
昭和47年2月から3月までには第2次調査がありましたが、当時は3号墳は消滅し、2号墳も西半分が削られて、わずかに1号墳が姿をとどめているような状態でした。昭和48年3月の第3次調査では、宮ノ平古墳群は3基ともいずれも造り出しを持つ特異な古墳群であることが判明しました。昭和48年5月には、運動場造成のためには現状保存は困難であることから、1・2号墳も削って造成することとなりました。
城陽高校では昭和47年(1972年)の開校以来、地歴クラブが中心となって、宮ノ平古墳の研究と全生徒にそれを理解させる活動を行い、社会科等の教科活動を通じて古文化財を教育に調和させる活動を行っていました。
昭和49年、京都府教育委員会によって、「宮ノ平古墳資料室」が作られ、校舎の一室に、古墳群の復元模型、説明版、出土品展示を行いました。