均質でない「こころ」
 「登校できない」と一言で言っても、時期によっては全欠席の状態もあるし、断続的に欠席するいう状態もあります。

 あるいは別室や保健室なら登校できるとか、遅れてなら登校できるという状態もあります。

 また、登校をしぶっていたけれど何とか朝から登校できたとか、学校でしんどくなったけれど何とか放課後まで登校していたとか、あるいは夜だけ登校できたというように、「登校できる子・できない子」のこころの中では日々刻々とさまざまな気持ちの変化が起こっているわけです。

 完全に学校を休んでいる状態であっても、例えば学校からの情報を全く遮断しているとか、時には目を通すこともあるとか、あるいは校舎には入らなかったけど学校の近くまで来られたなどということもあります。

 それは学校に通う全ての子どもに言えることなのでしょうが、その日、その時間、たまたま登校できた、できなかっただけで、結果として「登校した・しなかった」が子どもの行動として現れたとも考えられるわけです。

 おそらく毎日、きちんと登校している子どもであっても、「今日は行きたくないな」とか「行こうか休もうか、どうしようかな」と感じている子どもが大多数でしょう。

 あるいはたまたま学校に行けなかったとしても、「夕方になって誰も居なくなったら少しくらいなら学校に行ってもいいかな」とかいろいろな思いを巡らせていることもあるわけです。

 「行く・行かない」という行動は、一見すると両極の二分法的なものにみえますが、登校できない子のなかで動いている「こころ」は、「行く・行かない」の二分法では説明できないし、均質なものではないのです。


 「こころ」の動きを「川」の流れに喩えると、「川」の流れも表面から見ると一定の方向に流れているかのように見えます。

 ところが川の中に潜ってみると、川の流れは一定でないことに気づきます。
 流れは時に岩に当たって逆に流れたり、堰き止められたまま流れていなかったり、グルグルと渦を巻いていたりするわけです。

 「こころ」は均質に、時間の経過とともに一定に流れるものではないのです。
 
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