イ 聴くということ

 聴き方のコツ
 子どもとの雑談や遊びの中から、子どものこころの中に深く潜り続けて水面下にみられる内的事実を「観る」「診る」こと、そしてねばり強く親とも面談を重ね、親自身の「こころの守り」をはずす作業を・・と述べました(「こころの守り」をはずす作業に詳述)。

 このときおそらく生じるであろう教師の疑問について心理臨床ではどのように応えているのか、「聴き方」ということについて絞って考察してみます。


 
 不登校の子どもの家庭訪問をした際に、例えば子どもが教師である自分には興味のない雑談や遊びを一緒にしようとして、教師には全く興味関心のないゲームソフトの話を延々と繰り返し、ゲームを一緒にしようと言っている場合、我慢してそれにつき合うのがいいのでしょうか。

 今、一緒にゲームをすることがその子どもにとって決して治療的であるとは思えないし、もっと他に話したいことがあるのに、というような場合です。
 これには正解はないし、どうした方がいいというようなものではありませんが、このとき心理臨床家はゲームソフトの話の内容にも関心は向けるのですが、そのことよりも、どうしてその子が今、そのゲームソフトの話をするのかということにずっと多くの関心をもって聴いているものです。

 ゲームソフトの話や遊びはそれほど興味がなくても、その子がどうしてそれに惹かれ、話すのだろうかということに興味をもって聴いています。

 「どうしてそんなにその話をするの?」と尋ねることはまずありません。尋ねたところで子どもはおそらく答えられないでしょう。その子の水面下で動いているこころの動きを感じ取ろうとしながら聴いています。

 そのソフトが例えば冒険ものであったり、バトルものであったりするとき、その子の置かれている環境や願いと重ね合わせながら聴いていくと、そこに何となく子どものこころと通じるものを感じ取れることもあるし、その時はそうでなくてもずっと後になって他のこととつながって見えてくることもあります。


 家庭訪問の際、親が一方的に自分の子育ての愚痴や子育ての苦労を話すときも、これとよく似ています。その話が的を得たものであるときはうんうんと頷きながら黙って聴くことができるのですが、それがあまりにも一方的であったり、脈絡に乏しかったり、自分の考えと合わないときなど、黙って聴いているのは辛いものです。

 これは聴き手である教師自身の何らかのコンプレックスに触れるからであると考えられます。
 さらに他の教師や学校への激しい抗議や非難になると、ますます聴き手のコンプレックスは刺激されて、時には言い訳をしたくなったり自己弁護をしたくなったりします。

 この感情をきちんと自分で処理できないときは、本当の意味で素直に聴くということはできないものです。


 聴いている自分の「辛さ」に目を向けると、ここには「話したがっている自分」がその一方で浮かんできます。自分が話したいから、あるいは、自分勝手な解釈をまじえながら聴いているので、話された内容がうわの空であったり、きちんと聴けなかったりするわけです。

 純粋に関心をもって相手の話そうとしていることを、その内容よりも、どうしてその話をするのだろうかということに興味をもちながら聴き続けていると、どんなにたわいのない脈絡に乏しい話でも、こころの水面下では実はちゃんとつながっているものです。

 そうして水面下のこころの動きが見え始めると、水面上で起こるさまざまな出来事がキラキラと輝きを放ちながらみえてくるものです。 

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