京丹後市立網野北小学校
  

所在地:〒629-3104 京都府京丹後市網野町浅茂川1861番地 電話:0772-72-0967 ファックス:0772-72-1116 メール:aminokita-es@kyoto-be.ne.jp
 

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学校の紹介

 東経135度1分53秒、北緯35度41分9秒に位置する本校は、校区内を日本標準時である東経135度の子午線が通過しています。
 子午線の通過する学校としては、日本最北端の学校です。
 校舎は日本海に面し、夏には学校の前の海が大勢の海水浴客でにぎわいます。
 また、校地面積は約4万平方メートルにおよび、京都府でも有数の敷地面積をほこっています。 
  昭和58年に旧網野小学校が2校に分離し、磯小学校を統合して本校が開校しました。
 学校は網野町の市街地に位置しています。

網野北小学校の誇れるところ
  1. 4haの広い校地と松林
  2. 廊下が長い130メートルの廊下が4本
  3. 大きな中庭の池と鯉
  4. 楽天野村克也監督の「敵在我」の直筆の大きな額
  5. 屋上のライブカメラ…京丹後市HP(八丁浜カメラ)から見られます

<希望の像>
希望の像


 

写真で校区を紹介します
校区マップ
 八丁浜 離湖 磯
 八丁浜
 離湖
 磯
   
 浅茂川温泉 子午線塔 
 浅茂川温泉
 子午線塔
 
 

アクセスマップ

アクセスマップ

網野北小学校へのアクセスは、こちらからご覧ください。(Googleマップ)
 

校歌

網野北小学校校歌


澄之江浦の白砂に 
寄せては返す青い波
学ぼうみんなでほがらかに
互いに励む網野北小学校 

白雲浮かぶ離湖に
未来の夢が揺れている
楽しくみんなで手をつなぎ
希望輝く網野北小学校

希望の像

 

学校沿革史

学校沿革史
 学校要覧をご覧ください


 学校要覧.pdf
 

福田川流域とその周辺の考古資料

福田川流域とその周辺の考古資料

宮の下遺跡(網野町小浜小字城山)
 縄文時代早期、前期の遺跡で日本海に近い洪積台地上に営まれた丹後を代表する集落遺跡である。石器、石鏃、貝殻、魚鳥骨片、縄文土器が出土している。石鏃は、黒曜石、サヌカイトを使用している。

新樋越川川底遺跡(網野町小浜小字城山)
 離湖と日本海を結ぶ砂丘上に位置した縄文遺跡で、縄文時代中期の土器や石鏃が出土している。

離遺跡(網野町小浜)
 弥生時代前期中葉から中期前葉、後期の遺物が出土していて、集落の存在が推定できます。

入艘浜遺跡(網野町磯)
 大型石錘や叩石が表採され、弥生から古墳時代の遺跡と考えられる。

岡城山遺跡(網野町小浜小字城山)
 弥生時代の墳墓と考えられている。甕、高杯、鉢、壺等の墳墓に供献された器形が出土している。

離湖古墳(網野町小浜小字離山)
 埴輪列を持つ大型の長方形墳で、長持形石棺と組合式箱形木棺という異なる埋葬施設があり、石棺からは5世紀中葉、木棺からは5世紀前葉の副葬品がでている。出土遺物から石棺は、武器を多く持った武人的性格、木棺は、装飾品が多く、女性的性格が考えられている。

離山古墳(網野町小浜小字離山)
 埴輪列を持つ、大型の長方形墳で、長持形石棺と組合式箱形木棺という二つの異なる埋葬施設がある。石棺は、5世紀中葉で武人的性格、木棺は、5世紀前葉で装飾品が多く、書籍定期な性格が強い。出土した長持形石棺は、離湖公園内にあり、墳丘上に覆屋の中に安置されている。

岡古墳群(網野町小浜市城山)
 日本海と離湖の砂丘に造られ、横穴式石室(1号墳)と竪穴式石室(2号墳)および横式石棺(3・4号墳、3号墳は、竪穴式系横口式石室の可能性が強い)からなる。1号墳は7世紀初頭、2号墳は6世紀前半、3・4号墳が、5世紀末と考えられる。馬の骨付き肉が副葬されていたことは、全国的にも珍しい事例として有名です。(1号墳)

庵山6号墳(網野町磯)
 標高130~140という高い山上にある。箱形石棺、竪穴式石室を持つ古墳です。

相谷1号墳(網野町磯)
 6世紀後葉の古墳で、横穴式石室を埋葬施設としている。

兎毛古墳(網野町小浜)
 7世紀前葉に造られ、7世紀中~後葉までに追葬された無袖式横穴式石室を埋葬施設とする古墳です。
 

離湖ラグーン(潟湖)


離湖ラグーン(潟湖)

 網野低地には、南から福田川が流れ、海岸は砂丘がある。
 海岸部の砂州・砂丘地で外海と隔てられているのが京都府最大の淡水湖として知られる離湖です。離湖の面積は888.7
㎥、最大水深7mです。かつては日本海とつながっていた湾入の一部と考えられますが、八丁浜の砂州の発達及び砂丘の成長により、日本海とは隔絶され、ラグーンになったものと考えられます。
 古くから水位の上昇で周囲の田畑に浸水を繰り返したため、1674年、3年がかりの難工事を経て、万畳山南部を海に通じる暗渠が開削されました(樋越川)。
 1952年新たに離湖の西端から海へ通じる水路(新樋越川)が開削され、水位が上昇していた時期には離湖中に離れ島となっていた離山も水位の安定的低下により、陸続きとなりました。

 福田川河口付近は、現在は、田畑がひろがっていますが、昭和40年代まで、浅茂川湖(浅茂湖)が存在しました。江戸末期から上流の山土を切り崩して、湖の埋め立てがすすめられました。1970年頃、土地改良の埋め立て工事により、浅茂川湖はほぼ消滅しました。


 

島児神社(浅茂川)の浦島伝説


島児神社の浦島伝説

 昔、水の江の長者日下部曾却善次夫妻には子どもがなく、子宝に恵まれたいと毎日祈っていました。
 ある夜、夫婦は同じ夢を見ました。神が現れ「二人の願いを聞き届けよう。明日、福島に来るように」とお告げがありました。
 翌朝福島に行くと布団に巻かれた赤子が置かれていました。夫婦は嶋子と名づけ大切に育てました。
 嶋子は釣りが好きで毎日釣りに出かけました。釣った魚は釣溜(つんだめ)にビクのままつけておいたといいます。
 そんなある日、嶋子が福島の白鷲が鼻で釣りをしていると乙姫に出会い、一目で好きになり、二人は夫婦の約束をしました。
 乙姫の勧めで龍宮城へ行き、毎日手厚いもてなしを受け、楽しい日々を送り、瞬く間に三年の月日が流れました。
 嶋子は両親の住む故郷のことを思い出し、打ち沈む日が多くなったのを見た乙姫は、嶋子のことを思い、故郷に帰ることを認めました。
 「ここへ帰りたいと思うときはいつでも来てください。この玉手箱は決して開けてはなりません。」と玉手箱を差し出し見送りました。嶋子は万畳浜に着くと懐かしい我が家への道を急ぎました。しかし、道で出会う人はみな知らない人ばかり。家はなく屋敷は雑草が茂り、荒野原になっていました。嶋子は嘆き、途方に暮れ、乙姫からもらった玉手箱を開けてしまいました。すると中から白煙が立ち上がり、嶋子の髪は真っ白に、顏はしわだらけ、すっかり老人になってしまいました。驚いた嶋子は、思わず顔のしわを引き千切って傍らの榎に投げつけました。榎は幹がシワシワになり「しわ榎」と呼ばれるようになりました。
 

静神社(磯)の静御前伝説


静神社の静御前伝説

 磯の善次の娘として生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。
 巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長し、寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。
 また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室になりました。静18歳、義経27歳でした。 
 義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は捕らわれて鎌倉に送られました。
 文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。
 『吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな』 と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。 
 静は7月に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。
 後に許され、禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。
 20余歳の秋の暮れ、静は鳴き弱った虫が消えるように夫と愛児の後を追いました。
 悲劇の英雄、源義経が愛した静御前を祀る神社で磯地区のはずれにあります。 かって義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという記録もあります。
 この手紙や多くの遺品は、天明(てんめい)2年(1782年)の大火で神社とともに全て焼失してしまいました。
 現在の社(やしろ)は、元のところから西へ200m離れた位置に、静御前の木像とともに祀られています。
 静御前を訪ねて源義経(みなもとよしつね)が磯にやってきたとき、船を着けた所が入艘の浜だという伝説が残り、500m沖合の海上に点々と浮かぶ黒岩・赤岩・日照岩(ひでりいわ)などが、凪の日は浮島のように、荒天の時には波を切って泳ぐ水鳥のように見え、まちの景勝地として知られています。
 

足立久兵衛、湖口小左衛門と新田開発

 
足立久兵衛と湖口小左衛門と新田開発

  足立久兵衛と湖口小左衛門は、江戸時代に「かつみ」(離湖)から最短距離の万畳山の下をくり貫いて湖の水を海に流すトンネル工事(マブ)を実現させました。これにより新たな田が開かれ、また、近隣の水田が冠水の被害からまぬがれるようになりました。
 足立久兵衛は、寛永3年(1627)、網野の島溝川村の出身で、湖口小左衛門は、離湖に近い小浜の湖口に住んでおり、生没年は不明ですが、同年代を生きた人です。
 延宝2年(1674)海手側と山手側から工事を開始しましたが、当時は人力の作業であり、海の風浪も激しく、のみと金づちによる手彫り作業は、困難を極めました。そして、苦労の末に、延宝4年、水抜穴の掘削に成功しました。高さ約1m強、幅約1m弱せ、延長600mnトンネルで樋越川と呼ばれています。